矢作城跡(読み)やはぎじようあと

日本歴史地名大系 「矢作城跡」の解説

矢作城跡
やはぎじようあと

[現在地名]佐原市大崎

香西かさい川流域に広がる水田に挟まれた半島状の台地北端に位置する。大崎おおさき城ともいう。千葉氏一族の国分氏が在城したとされる中世の城跡。国分氏は千葉常胤の第五子胤通に始まり、胤通は本矢作城を居城とした。胤通の三男常義は大戸矢作領主と称され、常義の曾孫泰胤は国分矢作惣領として「大崎城」に居城を移したという(以上、千葉大系図)。正徳四年(一七一四)の根郷五箇村谷地御定納記(伊能家文書)によると、国分氏の所領は矢作領といわれたが、天正(一五七三―九二)頃の乱世に大崎の地が手狭になったため、天正一二年頃に国分大膳がいわさきに新城を築いて居城を移し、他国では大崎城・岩ヶ崎城をともに「矢作之城」とよんだと伝える。さらに同一八年の豊臣秀吉による小田原攻めに伴い、岩ヶ崎城は安房里見氏の正木大膳に攻められて落城したというが、確証はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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