矢作橋(読み)やはぎばし

日本歴史地名大系 「矢作橋」の解説

矢作橋
やはぎばし

東海道は東より城下なぐり町に入り、籠田かごだ町の惣門より郭内となり二七曲りして、西の出入口松葉まつば惣門より矢作川左岸八町はつちよう村に至る。これより二〇八間の矢作橋を渡り、右岸の東矢作村に入る。矢作川は康正元年(一四五五)西郷稠頼が岡崎城築城のため、矢作橋付近に築堤するまでは、太古のままに流れていた。天正一八年(一五九〇)田中吉政が岡崎城主となり、東海道を城下に通じるまでの矢作橋についてはつまびらかでない。

「類聚三代格」の承和二年(八三五)六月二九日の太政官符に、「参河国飽海矢作両あくみやはきの河各四艘、元各二艘、今加各二艘(下略)右河等崖岸広遠不造橋、仍増件船」とあり、当時より左岸高く右岸の川原広く、流水が幾筋も分れて流れていたようである。「太平記」の「矢矧鷺坂手越河原闘ひの事」の項にも「此河の様を見候に、渡りつべき所は三箇所候へども、向の岸高くして屏風を立てたる如くなるに」とある。天正年代頃までは架橋なく、渡船か軍兵渡河には舟橋によったようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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