社会主義協会(読み)しゃかいしゅぎきょうかい

改訂新版 世界大百科事典 「社会主義協会」の意味・わかりやすい解説

社会主義協会 (しゃかいしゅぎきょうかい)

(1)1898年に〈社会主義の原理と之を日本に応用するの可否を考究する〉目的で設立された社会主義研究会を,1900年1月に社会主義を〈日本に応用すること〉を目的に改組した日本最初の社会主義者の組織。安部磯雄会長に,片山潜,幸徳秋水らを擁して社会主義の研究と啓蒙にあたり,平民社と一体となって草創期の日本社会主義に大きな足跡を残した。しかし,日露戦争中の04年11月に,警察当局から解散を命じられた。

(2)1951年1月,戦前の労農派の流れをくむ山川均大内兵衛,向坂逸郎らの理論家に太田薫岩井章,高野実らの労働運動指導者が加わって発足し,6月に雑誌《社会主義》を創刊。代表は山川,大内で,58年山川没後は大内,向坂が代表を務めた。協会マルクス=レーニン主義を指導理論とし,その普及とともに日本社会党の階級的強化を通じて社会主義を平和的に実現させる思想集団と自己規定する。このことは,民族民主革命をとおして社会主義革命に移行するという共産党の路線と対立し,また総評の社会党一党支持を理論づけて共産党の組合の政党支持自由論と対立するなど,論争を展開してきた。他方,社会党内にあって党を階級的に強化するための実践は,党内左翼を中心として機能してきた。すなわち西尾末広らの民主社会主義路線や江田三郎の構造改革路線などを激しく批判し,青年層を中心に勢力を拡大した。そのため党内の他派との組織的対立や党内批判が強くなり,78年2月の第11回大会で,それまでおかれていた労働組合などの組織内グループを廃止するなど,思想集団としての立場を強化する自己改革を行った。なお,1967年6月の第8回大会では,組織をより実践的集団に改組しようとする太田薫らのグループと,思想集団としての立場を守ろうとする向坂派が対立して分裂した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「社会主義協会」の意味・わかりやすい解説

社会主義協会
しゃかいしゅぎきょうかい

明治時代の社会主義研究・実践団体。1900年(明治33)1月28日に社会主義研究会を改称し発足。会長は安部磯雄(いそお)、幹事河上清(きよし)(のち片山潜(せん)と西川光二郎(みつじろう))。01年3月2日に日本最初の社会主義学術大演説会を主催したのをはじめ社会主義の宣伝、普及に力を尽くす。とくに社会民主党が結社禁止にあうと、例会のほか演説会、茶話会、討論会、全国への遊説を行い活発な活動をみせ、平民社設立ののちも社会主義運動を推進した。おもな会員は社会主義研究会員のほか木下尚江(なおえ)らで、当初30余名であった会員は一時180名に達したという。04年11月16日に結社禁止を命ぜられた。

[成田龍一]

『太田雅夫編『明治社会主義資料叢書1 社会主義協会史』(1973・新泉社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「社会主義協会」の意味・わかりやすい解説

社会主義協会
しゃかいしゅぎきょうかい

1951年創立の社会主義理論研究集団。第2次世界大戦前の労農派グループの山川均大内兵衛向坂逸郎らに,太田薫,岩井章ら実践家グループも加わり,日本社会党左派の理論的支柱となった。 67年,向坂協会派と太田協会派に分裂したが,向坂協会派は社青同 (日本社会主義青年同盟) や労働大学を基盤に勢力を拡大,党の若手活動家を握った。 68年採択の「社会主義協会テーゼ」はレーニン主義による前衛党組織論を採用した。 1970年代なかばから,社会党内で協会の「党中党的逸脱,共産主義的偏向」に対する反協会派の反発が強まり,78年1月の大会で協会は,「テーゼ」を「提言」と改め,また理論研究集団へと性格を変えた。

社会主義協会
しゃかいしゅぎきょうかい

1900年1月 28日設立。「社会主義研究会」を前身とし,それが純研究団体であったのに対し,協会は現実問題を解決しようとしてできた実践的団体である。安部磯雄を会長,片山潜を幹事長とし,ジャーナリト,労働運動家,学生を構成員とした。日本最初の労働者政党社会民主党はこの協会を母体として結成されたが,01年5月 20日即日結社禁止となったため,03年の平民社設立にいたるまで,協会は社会主義運動の中心的役割をになった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「社会主義協会」の解説

社会主義協会
しゃかいしゅぎきょうかい

明治期に設立された日本最初の社会主義者組織。社会主義研究会を発展させ,社会主義を実践的に研究し,日本に応用することを目的とした。1900年(明治33)1月の社会主義研究会例会で社会主義協会と改称,安部磯雄を会長に,木下尚江(なおえ)・西川光二郎(みつじろう)らも加入。普選期成同盟会・労働組合期成会と交流し,社会民主党を結成したが,結党を禁止されたため,社会主義協会を強化。演説会などをくり返し,平民社とともに社会主義の啓蒙と宣伝に努めた。日露戦争開始後の04年11月結社禁止。

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旺文社日本史事典 三訂版 「社会主義協会」の解説

社会主義協会
しゃかいしゅぎきょうかい

1900年結成された社会主義の研究・宣伝団体(〜'04)
社会主義研究会が実践的態度をとることにより改組されたもの。会長は安部磯雄,会員は片山潜・幸徳秋水・堺利彦ら40名。1901年社会民主党を結成したが,直ちに禁止されたので,もっぱら社会主義の宣伝啓蒙活動につとめた。機関誌『労働世界』(のち『社会主義』と改題)を発行。

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世界大百科事典(旧版)内の社会主義協会の言及

【向坂逸郎】より

…1921年(大正10)東大経済学部卒業後,同助手,ドイツ留学を経て25年に九州大学法文学部経済原論担当教授となるが,28年(昭和3)の三・一五事件の余波で辞職を余儀なくされ,以後労農派同人として37年12月の人民戦線事件で検挙されるまで,改造社の〈《マルクス・エンゲルス全集》〉全32巻の編集,講座派との日本資本主義論争をはじめ広範な文筆活動に従事した。戦後は社会主義運動に携わることを条件に九大に復帰,非共産党マルクス主義者として山川均らと47年に〈《前進》〉を創刊,51年には社会主義協会を設立し機関誌〈《社会主義》〉を刊行して総評や日本社会党内に支持者をひろめた。54年1月採択の左派社会党の綱領は彼の指導で作成され,また,彼と弟子たちにより三井三池炭鉱労働組合内に設けられた学習組織〈向坂教室〉は,組合員の階級意識と戦闘性をたかめ,60年を頂点とする三池闘争(三池争議)に大きな役割を果たした。…

※「社会主義協会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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