神津邦太郎(読み)コウヅ クニタロウ

20世紀日本人名事典 「神津邦太郎」の解説

神津 邦太郎
コウヅ クニタロウ

明治〜昭和期の酪農神津牧場創設者。



生年
慶応1年10月24日(1865年)

没年
昭和5(1930)年12月2日

出生地
信濃国佐久郡志賀村(長野県佐久市)

学歴〔年〕
慶応義塾

主な受賞名〔年〕
緑綬褒章〔明治43年〕

経歴
長野県の豪農に生まれ、若くして福沢諭吉の門下生となり、慶応義塾に学ぶ。上海留学し洋学を研鑽、帰国早々の明治20年、群馬県西牧村(現・下仁田町)に神津牧場を開く。家畜は牛のジャージー種が主で22年早くもバターを製造し、国産バター第1号として名声を博す。38年米国農商務省の嘱託として渡米。その時全財産をはたいて米国内のチャンピオン級の牛45頭を直輸入、これがその後の経営や、日本の乳牛改良にも多大な貢献を果たした。明治末には500ヘクタールの大牧場に仕上げたが、理想を追い求めたため借財が積もり、同地は人手に渡り、失意の内に死去。しかしその後財団法人神津牧場として経営は継続され観光名所となっている。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「神津邦太郎」の解説

神津邦太郎

没年:昭和5.12.2(1930)
生年:慶応1.10.24(1865.12.11)
日本有数の民間牧場神津牧場の創設者。信濃国佐久郡志賀村(佐久市)の黒壁と呼ばれる豪農の家に生まれる。慶応義塾で学んだのち,中国上海に留学。酪農の振興を志し,明治20(1887)年群馬県北甘楽郡南野牧村(下仁田町)に神津牧場を開設。同22年には「乳油」(バター)を製造,販売する。その後もよいバター,よい酪農をめざして精力財産を傾けるが,収入がそれに見合わず大正8(1919)年には約500haに拡張した牧場を売却せざるをえなくなる。邦太郎は失意の内に亡くなるが,牧場はその後,田中銀之助,明治製菓を経て財団法人神津牧場として健在で,観光の名所ともなっている。<参考文献>山室静編著『神津邦太郎翁小伝』

(斎藤洋一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「神津邦太郎」の解説

神津邦太郎 こうづ-くにたろう

1865-1930 明治-大正時代の酪農家。
慶応元年10月24日生まれ。上海(シヤンハイ)に留学。酪農をこころざし,明治20年群馬県北甘楽郡(きたかんらぐん)南野牧村(下仁田町)に神津牧場を開設。牛乳やバターを生産し,東京などで販売するが,経営に失敗した。牧場は財団法人化され,観光名所となる。昭和5年12月2日死去。66歳。信濃(しなの)(長野県)出身。慶応義塾卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の神津邦太郎の言及

【神津牧場】より

…軽井沢の南約10km,物見山の東斜面に広がる。明治政府の大農経営の政策にそい,神津邦太郎が1887年に開く。その後経営者が転々とし1945年から財団法人となる。…

※「神津邦太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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