(1)7世紀以来の律令体制下で朝廷の神祇行政を管掌した官衙。古訓では〈カンヅカサ〉と読む。日本では古来神祇を尊んで祭祀を重んじたため,古代中国の令制にはない神祇官を太政官とは別に置いた。しかし現実には太政官の八省と同格であり,その権能は小さかった。大化改新,天智朝には〈神官〉と呼ばれたが,天武朝の官制で初めて神祇官と称された。官衙の場所は宮城内の郁芳門の南脇にあった。神祇官の長官は神祇伯といい,従四位下相当官。神祇の祭祀,祝部(はふりべ),神戸(かんべ)の名籍,大嘗,鎮魂,御巫(みかんなぎ),卜兆および官事を惣判することを任とした。ほかに官員として次官である大・少副,判官の大・少祐,主典の大・少史各1人が置かれ,また神部30人,卜部20人等の職員が置かれた。中世以降は他の官司と同じく特定の氏族により官職の世襲が行われるようになった。伯には平安中期以降,皇親である諸王が就くようになり,中世には任伯と同時に王氏に復する花山源氏の白川家が世襲する例が開かれ,次官である大副・権大副も大中臣氏,卜部氏がそれぞれ世襲した。鎌倉時代以後,うち続く戦乱のため,朝廷権力の衰微とともに神祇官も形骸化し,応仁の乱で庁舎は焼失した。1590年(天正18)に至り吉田神社(京都)の斎場所(さいじようしよ)に神祇官八神殿をうつし,1609年(慶長14)から神祇官代となし,また白川家邸内にも神祇官八神をまつって明治維新に及んだ。
執筆者:阪本 是丸(2)1868年(明治1),祭政一致をスローガンとした明治維新政府は神祇官の再興を企て,太政官の下に神祇官を置き,翌年にはこれを太政官より独立させた。神祇官の管轄事項には新たに宣教にあたる宣教使のことがつけ加えられ,長官,次官,正・権判官,主典,史生を置き,判官以上を神祇官職員の兼務とし,各藩に宣教係が置かれ,神道国教化政策が展開された(初代長官は中山忠能神祇伯,次官は福羽美静神祇少副)。しかし明治政府の富国強兵(〈近代化〉)政策の展開の中で,71年には神祇省に格下げされ,さらに翌年にはこれも廃止されて祭典関係の事項は式部寮に,宣教関係の事項は新設の教部省に移され,宣教使はしだいに教導職に吸収された。なお,のち1940-46年の戦時体制下に,神祇に関する独立の中央官庁として神祇院が一時設置された。
執筆者:中島 三千男
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(1)令制(りょうせい)官司の一つ。古訓では「かみづかさ」とよむ。この官司・官名は天武(てんむ)・持統(じとう)朝(672~696)ころに成立したと思われるが、詳細は不明で、令制では太政官(だいじょうかん)と並ぶ格が与えられており、神祇および朝廷の祭祀(さいし)、祝部(はふりべ)・神戸(かんべ)の名籍などをつかさどり、職員は伯、大副、少副、大祐、少祐、大史、少史各1人、神部(かんべ)30人、卜部(うらべ)20人、使部(しぶ)30人、直丁(じきちょう)2人の定員があった。神祇伯以下の諸職には中臣(なかとみ)・忌部(いむべ)ら名負(なおい)の氏の就く例が多く、平安中期以降、神祇伯は花山(かざん)天皇の後裔(こうえい)白川家が世襲したが、応仁(おうにん)の乱(1467~77)後、官司自体が衰退した。
[菊池克美]
(2)明治初期における神祇の祭祀(さいし)と行政をつかさどる政府機関。祭政一致をスローガンとして成立した明治維新政府は、神祇官の再興を企て、1868年(慶応4)1月17日神祇事務科、翌月3日神祇事務局を置き、閏(うるう)4月21日太政官(だじょうかん)の下に神祇官を置いた。さらに翌年7月8日これを太政官から独立させて上位に置き、また職制も令制に倣って伯(初代神祇伯は中山忠能(ただやす))以下を置くことによって、名実ともに神祇官を復活した。ただしその職掌には、令制にはない宣教と陵墓の管理が付け加わった。この神祇官の下でいわゆる神道(しんとう)国教化政策が展開されたが、「近代化」政策の推進のなかで、71年8月神祇省に格下げされた。以後、長く国体論者たちにより復興運動が続けられたが実現せず、ファシズム期に神祇院(1940.11~46.1)が内務省の外局として設置されたにとどまった。
[中島三千男]
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1大宝・養老令制の官司。四等官は順に伯・大少副・大少祐・大少史で,このほか神部(かんべ)・卜部(うらべ)が所属。職掌として,神祇祭祀を執り行い,諸社の祝部(はふりべ)・神戸(かんべ)を名籍により掌握し,卜部や御巫(みかんなぎ)の亀卜(きぼく)によって吉凶を占った。太政官とともに二官と並び称されるが,太政官に対して上申文書である解(げ)を出していることからもわかるように,太政官の管轄下におかれた。八省に対しては平行の官司間で交わされる文書である移(い)を出し,諸国に対してもこれを行った。「日本書紀」の天武紀にみえる神官が直接の前身と考えられるが,持統紀には神祇官と表記されるので,浄御原令(きよみはらりょう)制下で改称された可能性がある。
2明治初年の祭祀・宣教をつかさどる政府の最高官庁。1868年(明治元)新政府ははじめ神祇事務科,ついで神祇事務局をおいて祭祀などをつかさどったが,祭政一致の理念から神祇官再興の声が高まり,同年閏4月,政体書(せいたいしょ)の発布により太政官における行政官の一官として神祇官を設置。69年7月の官制改革で太政官の外に神祇官を設け,太政官の上位にあるものとした。伯・大副(たいふ)・少副以下の職員をおき,祭祀・諸陵・宣教などを管掌。初代神祇伯は中山忠能(ただやす)。宣教使を統轄して復古的な大教宣布の活動を進めるなど,政府(太政官)の開化政策と対立。71年8月廃官となり,神祇省に格下げされた。
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…古訓では〈カンヅカサ〉と読む。日本では古来神祇を尊んで祭祀を重んじたため,古代中国の令制にはない神祇官を太政官とは別に置いた。しかし現実には太政官の八省と同格であり,その権能は小さかった。…
…国家神道の思想的源流は,仏教と民俗信仰を抑圧して,記紀神話と皇室崇拝にかかわる神々を崇敬することで宗教生活の統合をはかろうとした,江戸時代後期の水戸学や国学系の復古神道説や国体思想にある。明治維新にさいして,こうした立場の国学者や神道家が宗教政策の担当者として登用され,古代の律令制にならって神祇官が設けられて,祭政一致が維新政府のイデオロギーとなった。1868年(明治1)3月には神仏分離に関する一連の法令がだされ,それ以後全国的に神仏分離と廃仏毀釈が行われた。…
…したがって具体的な名称は,時代や地域によって異なり,きわめてさまざまである。律令時代には一般行政をつかさどる太政官とともに神祇官が置かれ,国家の祭祀を行った。神祇官には,伯(長官),大・少副(次官)をはじめ,大・少祐,大・少史および神部(かんべ),卜部(うらべ)がおり,そのほかにも御巫(みかんなぎ)などがいた。…
…日本古代の律令制の官庁組織をいう語。狭義には太政官(だいじようかん),神祇官(じんぎかん)の二官と中務(なかつかさ)省,式部(しきぶ)省,治部(じぶ)省,民部(みんぶ)省,兵部(ひようぶ)省,刑部(ぎようぶ)省,大蔵(おおくら)省,宮内(くない)省の八省を指すが,広義には,この二官・八省に統轄される八省被管の職・寮・司や弾正台(だんじようだい),衛府(えふ)などの中央官庁および大宰府(だざいふ)や諸国などの地方官庁を含む律令制の全官庁組織の総体をいい,ふつうは後者の意味で用いる。このような官庁組織は,7世紀後半から8世紀初めにかけて形成された。…
※「神祇官」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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