朝日日本歴史人物事典 「福井作左衛門」の解説
福井作左衛門
江戸初期の二条城棟梁,枡職人。初代作左衛門は,もともと大和国(奈良県)平群郡法隆寺村字福井に住む地侍で,のちに大和法隆寺大工になった。大坂の陣のとき中井正清配下の棟梁として,大坂における作事に参加。その後京都へ移り,寛永11(1634)年3代将軍徳川家光の上洛のさい,中井正純の推挙で京都所司代板倉重宗から二条城棟梁に任ぜられた。また同年,「枡御用」を受け,基準になる「御本枡」を賜り,京枡座を支配するようになったと伝えられる。二条城棟梁としては,大工頭中井家のもと,配下に独自の大工組である福井組を編成し,二条城の日常的な管理維持のための修理にたずさわった。元禄5(1692)年には,棟梁の一種である木挽頭という地位にあり,油小路通竹屋町下ル橋本町(京都市中京区)にいたことが知られている。枡職人としては,「枡座」のもと幕府から営業独占の特権が与えられ,京枡の製作・販売・検査を主な業務としていた。枡の製造には,金物業者や木地業者を配下において分業体制をとり,生産・流通両段階における枡の検査,すなわち「枡改め」によって,西国での京枡座支配を確立していった。寛文9(1669)年には,度量衡統一政策のもと江戸幕府が京枡を枡基準としたことによって,福井家で製造される京枡が全国の標準規格になった。享保7(1722)年からは,二条城棟梁の職から手を引いて,もっぱら枡関係業務に専念するようになった。しかし,明治8(1875)年度量衡取締条例によって枡座の独占権は失われた。<参考文献>谷直樹『中井家大工支配の研究』,京都市文化観光局『福井家旧蔵京升座関係資料調査報告書』
(高橋康夫・冨島義幸)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報