福田徳三(読み)フクダトクゾウ

デジタル大辞泉 「福田徳三」の意味・読み・例文・類語

ふくだ‐とくぞう〔‐トクザウ〕【福田徳三】

[1874~1930]経済学者。東京の生まれ。東京商大教授。理論的にはマーシャルを中心とした新古典学派の立場にたち、社会政策における改良主義の原理確立に努めた。著「社会政策と階級闘争」「厚生経済研究」など。

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精選版 日本国語大辞典 「福田徳三」の意味・読み・例文・類語

ふくだ‐とくぞう【福田徳三】

経済学者。東京出身。ドイツへ留学。古典学派・ドイツ歴史学派マルクス主義を学び、自由主義者として経済理論・経済史・社会政策を研究。東京高等商業学校および慶応義塾大学教授。主著「社会政策と階級闘争」「厚生経済研究」。明治七~昭和五年(一八七四‐一九三〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「福田徳三」の意味・わかりやすい解説

福田徳三
ふくだとくぞう
(1874―1930)

経済学者。東京に生まれる。1896年(明治29)に東京高等商業学校(現一橋(ひとつばし)大学)を卒業し、翌97年から1901年(明治34)までドイツに留学、主としてミュンヘン大学でL・ブレンターノに師事した。帰国後、母校(~1904)、慶応義塾大学(1905~18)で教えたのち、19年(大正8)から没年まで母校(当時、東京商科大学)教授。1905年法学博士、22年帝国学士院会員。日本で経済学がようやく自立し始めた明治末葉から昭和初期にかけての研究・教育両面における最大の貢献者の1人で、経済史、歴史学派的思考の移植、古典派経済学や(今日の日本でいわゆる)近代経済学の批判的紹介、マルクス経済学批判、社会政策・経済政策論等々、きわめて多方面で健筆を振るった。日本社会政策学会(1896~1924)の代表的論客で、ことに1916年の論文「生存権の社会政策」は著名。大正デモクラシー期に吉野作造らと設立した黎明(れいめい)会(1918~20)での活動や、マルクス主義・マルクス経済学をめぐる河上肇(はじめ)との論争もよく知られている。昭和に入ってからは、J・A・ホブソンの新自由主義やA・C・ピグー厚生経済学に深い関心を寄せていたようであるが、その十分な展開に先だち50歳代なかばで死去した。

[早坂 忠]

『『福田徳三経済学全集』全六巻(1925~27・同文舘出版)』『福田徳三著『厚生経済研究』(1930・刀江書院)』『福田徳三先生記念会編・刊『福田徳三先生の追憶』(1960)』

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朝日日本歴史人物事典 「福田徳三」の解説

福田徳三

没年:昭和5.5.8(1930)
生年:明治7.12.2(1874)
明治後期から昭和初期にかけての代表的経済学者。東京生まれ,東京高等商業学校(一橋大)研究科を卒業後,明治30(1897)年から33年にかけてドイツに留学。留学中に『日本経済史論』(独文)と『労働経済論』の2書を著すほど早熟の逸材である。帰国後母校の教授になったが,事情あって慶応義塾大に一時転出,やがて母校に復帰した。初期の講義で英のマーシャルを祖述したり,門弟らにしきりに近代理論派の研究を勧めたりしたが,しかし価格論重視の理論には早くから批判的であった。価格の均衡は交換や配分の正しい手引きとならず,たとえば労働市場は賃金の争いでなく生活の争いであるという。それはのちに「生存権」を基礎とする社会政策論になり,さらに「必要に応ずる分配」を原則とする「厚生経済(福祉国家)論」となった。日本社会政策学会の有力メンバーとして,マルクス主義の急進的立場に反対したが,イデオロギーを論ずるよりも,むしろ労働価値説や唯物史観を無批判に信奉する点を非難し,京都の河上肇 と激しく論争した。明治33年法学博士,大正11(1922)年帝国学士院会員となった。他面,関東大震災のときは被災者調査に奔走,また普通選挙の際は応援に熱中した。福田は通説では近代理論派の経済学の導入に力を尽くした点が強調されるが,むしろ独創力に富む優れた学者だったという点を高く評価したい。<著作>『福田徳三経済学全集』全6巻,『厚生経済研究』<参考文献>福田徳三先生記念会編『福田徳三先生の追悼』,『福田徳三・厚生経済』

(山田雄三)

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改訂新版 世界大百科事典 「福田徳三」の意味・わかりやすい解説

福田徳三 (ふくだとくぞう)
生没年:1874-1930(明治7-昭和5)

日本の経済学の黎明期における代表的経済学者。東京に生まれる。東京高等商業学校(現,一橋大学)を卒業後,1897年から1901年までドイツに留学し,L.ブレンターノに師事し経済学のほぼ全領域にわたって研鑽を積んだ。帰国後,母校や慶応義塾大学の教授を歴任,経済原論,経済史,社会政策を講義する。また社会政策学会の活動に参加する。1905年法学博士,22年帝国学士院会員。日本の経済学がようやく自立しはじめた明治末葉から昭和初期にかけて,多方面の研究,紹介をするとともに,多くの優れた弟子を養成した。イギリス新古典派経済学の立場に立ち,歴史学派やマルクス経済学には批判的であった。主著は《福田徳三経済学全集》(1925-27),《厚生経済研究》(1930)に収められている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「福田徳三」の意味・わかりやすい解説

福田徳三
ふくだとくぞう

[生]1874.12.2. 東京
[没]1930.5.8. 東京
経済学者。 1896年東京高等商業学校 (現一橋大学) 卒業。 1897~1901年ドイツ留学 (ルヨ・ブレンターノに師事) 後,母校および慶應義塾で教鞭をとり,1920年母校の東京商科大学教授。経済原論,経済史のほか経済政策,社会政策を講じた。マルクス主義の紹介者,かつ鋭い批判者でもあり,河上肇との論争は有名。日本の経済学の黎明期に多くの学説を紹介し,後進を育て,自立期の日本の経済学界に多大の貢献をなした。主著『日本経済史論』 Die gesellschaftliche und wirtschaftliche Entwicklung in Japan (1900) ,『国民経済講話』 (1917~19) ,『厚生経済研究』 (1930) 。 1925年までの著作の収録『福田徳三経済学全集』 (1925~27) がある。

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百科事典マイペディア 「福田徳三」の意味・わかりやすい解説

福田徳三【ふくだとくぞう】

経済学者。東京出身。ドイツに留学,L.ブレンターノらに学び,帰国後母校の東京商大教授。A.マーシャルを中心とした新古典派に近い立場から歴史学派やマルクス主義を批判し,独自の厚生経済学の体系を構想,理論・政策・歴史など広範な業績を残した。主著《国民経済講話》《日本経済史論》《厚生経済研究》。全集6巻がある。
→関連項目高橋誠一郎黎明会

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「福田徳三」の解説

福田徳三
ふくだとくぞう

1874.12.2~1930.5.8

明治末~昭和前期の経済学者。東京都出身。東京高等商業卒。ドイツに留学,歴史学派左派の領袖ブレンターノのもとで研究。学位論文はヨーロッパ語圏初の本格的な日本研究文献として有名。帰国後,母校東京高等商業および慶応義塾で講義。経済学の定着に貢献する一方,社会政策学会の中心として政策提言を積極的にこころみ,第1次大戦末期には吉野作造とともに黎明会を組織。戦後,マルクス主義の影響が強まると批判的立場を明確にし,河上肇と再生産論をめぐる論争のほか幾度か論争した。またピグーの厚生経済学の導入に努めた。自由主義的基盤にたちながら,政府による社会・労働問題の解決を一貫して提唱したことから,福祉国家論の先駆者と評される。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「福田徳三」の解説

福田徳三 ふくだ-とくぞう

1874-1930 明治-昭和時代前期の経済学者。
明治7年12月2日生まれ。ドイツに留学し,ブレンターノにまなぶ。帰国後,母校高等商業(現一橋大)の教授となり,一時慶応義塾でおしえる。大正7年吉野作造らと黎明(れいめい)会を結成。学士院会員。昭和5年5月8日死去。57歳。東京出身。著作に「厚生経済研究」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「福田徳三」の解説

福田徳三
ふくだとくぞう

1874〜1930
明治・大正時代の経済学者
東京の生まれ。ドイツ留学後はおもに母校東京高商(現一橋大学)の教授として,日本の経済学を開拓。また自由主義者として吉野作造らと黎明会を組織し,雑誌『解放』を編集,民本主義運動を指導した。主著に『日本経済史論』など。

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世界大百科事典(旧版)内の福田徳三の言及

【解放】より

…大正・昭和期の雑誌。(1)第1次 吉野作造,福田徳三らの黎明会同人を中心として,デモクラシー思想の普及のために1919年(大正8)6月大鐙閣から発行された総合雑誌。創刊号の定価38銭。…

【朝鮮】より

…こうした問題を考えるために,前近代の時代区分についての研究状況を概観しておこう。 朝鮮前近代史を世界史の発展段階の中に位置付ける試みを最初に行ったのは,日本の経済学者福田徳三であった。ドイツの歴史学派経済学を学んだ福田は,自足経済(村落経済),都市経済(領域経済),国民経済という世界史の三段階説を前提として,朝鮮は李朝末期にいたるまで,自足経済の段階にとどまっていたとしたのである。…

【ブレンターノ】より

…農業政策や人口政策の研究においても一家を成し,晩年は経済史の研究に没頭して《イギリス経済発展史》3巻(1927‐29)ほかを著した。福田徳三は彼の高弟の一人であり,当時台頭しつつあった社会主義勢力に対抗して人間主義的な社会改革の必要性を説き,師ブレンターノの社会政策の日本での普及に努めた。【間宮 陽介】。…

【封建制度】より

…(2)西洋的概念の導入 (a)レーン制 日本の近代史学の封建制研究は,明治30年代にとつじょ三つの大輪の花を咲かせる。三浦周行《武家制度の発達》(1904ころ執筆,1925刊),中田薫《コムメンダチオと名簿(みようぶ)奉呈の式》《王朝時代の庄園に関する研究》(ともに1906),福田徳三《Die gesellschaftliche und wirtschaftliche Entwicklung in Japan(日本に於ける社会並経済的進化)》(1900。《日本経済史論》として邦訳1907)である。…

※「福田徳三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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