鹿児島に設立された鹿児島士族中心の学校。西郷隆盛がいわゆる征韓論で下野した後,1874年6月,旧厩跡に設立された。本校は旧近衛兵の銃隊学校と砲兵出身者による砲隊学校よりなる。前者は篠原国幹が主宰し生徒数は500~600名,後者は村田新八が監督し生徒数約200名であったという。学課は軍事のほか《春秋左氏伝》などの漢学をも講じ,また校中を数十組に分け,輪番制で日々の当直をきめ,出校は午前9時,退出は正午とされた。この本校のほか市内に分校がおかれた。これはふつう郷校を当て,小学校退出の児童をして放課後の午後2時より学科・武芸等を習わせ,夜間は地域の青少年を学ばせた。私学校の名には諸説あるが,この公立の郷校に対する称ともいう。しかしこの私学校は西郷派士族の政治的・社会的結社の様相を帯び,外城の郷校も城下の私学校と連絡をとるに至り,また県令大山綱良の積極的な援助で私学校派のメンバーが県政にも力をもち,西南戦争においては私学校派が主導勢力となった。
執筆者:田中 彰
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明治初年、鹿児島に設けられた士族の学校。1874年(明治7)征韓論に敗れ下野した西郷隆盛(たかもり)に従い、鹿児島出身の軍人・文官のうち辞職帰郷する者が数百名に及んだが、これらの青年に一定の方向を与え指導統御するために、旧厩(うまや)跡に創立された。篠原国幹(しのはらくにもと)監督の銃隊学校(旧近衛(このえ)歩兵500~600人)、村田新八(しんぱち)監督の砲隊学校(同砲兵約200人)があり、軍事・漢学などを講じた。また諸郷に分校も設けられた。なお広くは、賞典(しょうてん)学校(士官養成所)、吉野(よしの)開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)も私学校に含めて考えられる。西郷派の政治結社的性格も強く、鹿児島県令大山綱良(つなよし)の積極的な支持のもと、県内の区長・戸長・警察幹部などは私学校幹部の占めるところとなった。西南戦争では、私学校派は西郷軍の中心となり、県庁全体が西郷軍の兵站(へいたん)部と化した。
[原口 泉]
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西郷隆盛らが1874年(明治7)6月に鹿児島に創設した私塾。73年10月の征韓論による政府分裂後,西郷に従って帰郷した士族の暴発を懸念して設立された。篠原国幹(くにもと)と村田新八がそれぞれ主宰する銃隊学校と砲隊学校からなり,市内や県内各郷に分校をおいた。県令大山綱良(つなよし)の協力により,運営には旧藩から県庁に引き継がれた資金をあて,県政も私学校党がほぼ独占して反政府勢力の最大拠点となった。77年西郷をかついで西南戦争をおこしたが,敗北して解体した。
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