私部・私部城(読み)きさいち・きさいちじよう

日本歴史地名大系 「私部・私部城」の解説

私部・私部城
きさいち・きさいちじよう

私部は現郡家町を蛇行しながら西流する私都きさいち川とその支流域の旧八東はつとう郡地域をさす。名称は古代の八上やかみ私部きさいべ(和名抄)を継承するが、中世には「キサイチ」とよばれた(天文八年一二月吉日「檀那引付」肥塚家文書など)。私部城は戦国期まで当地にあった城で、市場いちば城のことと思われるが確かではない。なお私部は江戸時代には私都とも書かれるようになる。

安元三年(一一七七)三月日および文治三年(一一八七)一一月日の新興寺住僧等解案(新興寺文書)新興しんごう(現八東町)境内の四至のうち「限東 金峯山金剛山峯得丸私部堺」とみえる。文和三年(一三五四)一〇月一四日、もと毛利次郎・同庶子の所領であった私部郷などが、前年美濃で戦死した佐々木秀綱の後継者に与えられている(「足利尊氏宛行状」周防佐々木文書)。毛利氏(森氏とも)は当地を本拠とし私部城に拠っていた国人で、文明年間(一四六九―八七)に勢力を拡大、同一一年八月には守護山名豊時と戦い勝利したが、翌月には山名政豊救援を受けた守護勢によって鎮圧された(「晴富宿禰記」同年閏九月四日条など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

五節舞

日本の上代芸能の一つ。宮廷で舞われる女舞。大歌 (おおうた) の一つの五節歌曲を伴奏に舞われる。天武天皇が神女の歌舞をみて作ったと伝えられるが,元来は農耕に関係する田舞に発するといわれる。五節の意味は...

五節舞の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android