稲畑勝太郎(読み)イナハタ カツタロウ

20世紀日本人名事典 「稲畑勝太郎」の解説

稲畑 勝太郎
イナハタ カツタロウ

明治〜昭和期の実業家,化学者 稲畑産業創業者;大阪商工会議所会頭



生年
文久2年10月30日(1862年)

没年
昭和24(1949)年3月29日

出生地
京都

学歴〔年〕
京都府師範

主な受賞名〔年〕
勲三等旭日中綬章〔昭和9年〕,レジオン・ド・ヌール勲章

経歴
明治10年京都府師範学校在学中、京都府から選ばれてフランス留学、リヨン工業学校で学び、欧州の化学染色業を視察。17年京都御用掛、皇居御造営御用掛、19年京都染織講習所開設で教授となった。20年京都織物会社の創設に尽くし、技師長となったが、24年辞任。稲畑商店(現・稲畑産業)を設立、29年稲畑工場、30年稲畑染工場を設立して軍隊用カーキ色染を創案した。大正7年株式に改組し社長。11年〜昭和9年大阪商工会議所会頭。この間、大正15年勅選貴院議員。またフランス留学の帰り、映画の父と呼ばれるリュミエール兄弟フィルム(シネマトグラフ)を日本に初めて持ち帰り、明治30年四条河原で初の試写会を開いた。親仏家で昭和元年には日仏文化協会を設立、日仏交流に尽力した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「稲畑勝太郎」の解説

稲畑勝太郎

没年:昭和24.3.29(1949)
生年:文久2.10.30(1862.12.21)
大正・昭和前期の経営者。大正7(1918)年から昭和12(1937)年まで染料(薬品)商社,稲畑商店(1890年創業の稲畑染料店が源流。1918年株式会社化)の社長。昭和1年から12年まで,日本染料製造株式会社の社長を兼ね,染料・染色業界の中心人物として活躍した。また,大正11年より昭和9年まで,大阪商業会議所(昭和3年より商工会議所)会頭。明治10年から18年まで京都府よりフランスに派遣されて以来の親仏家で,昭和1年,日仏文化協会の設立,その後の活動に尽力した。<参考文献>高梨光司『稲畑勝太郎君伝』

(谷口豊)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「稲畑勝太郎」の解説

稲畑勝太郎 いなはた-かつたろう

1862-1949 明治-昭和時代の実業家。
文久2年10月30日生まれ。京都師範在学中の明治10年フランスに留学,染色をまなぶ。23年生地京都に稲畑染料店(現稲畑産業)を開業。のち大阪に進出して,軍服用カーキ色染めを創案する。大正5年日本染料製造の創立にくわわり,15年社長。活動写真を輸入し,明治30年大阪で初公開した。大阪商業会議所会頭。貴族院議員。昭和24年3月29日死去。88歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「稲畑勝太郎」の解説

稲畑 勝太郎 (いなはた かつたろう)

生年月日:1862年10月30日
明治時代-昭和時代の実業家。大阪商業会議所会頭
1949年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

ビャンビャン麺

小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...

ビャンビャン麺の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android