稲荷山古墳(読み)イナリヤマコフン

デジタル大辞泉 「稲荷山古墳」の意味・読み・例文・類語

いなりやま‐こふん【稲荷山古墳】

埼玉行田ぎょうだ市の埼玉さきたま古墳群にある前方後円墳全長約120メートル。昭和43年(1968)に発掘された鉄剣から、金象眼の銘文115文字が発見された。

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精選版 日本国語大辞典 「稲荷山古墳」の意味・読み・例文・類語

いなりやま‐こふん【稲荷山古墳】

埼玉県行田市所在の埼玉(さきたま)古墳群を形成する古墳の一つ長方形周溝をもつ前方後円墳で、礫槨から発掘された鉄剣に、金象嵌(ぞうがん)の一一五の文字が発見された。

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改訂新版 世界大百科事典 「稲荷山古墳」の意味・わかりやすい解説

稲荷山古墳 (いなりやまこふん)

墳丘の一部に稲荷の小祠をまつることなどを理由として,稲荷山とよんでいる古墳が各地にある。とくに打越(うちこし)(熊本県),鴨(滋賀県),埼玉(さきたま)(埼玉県),白石(しろいし)(群馬県)などの稲荷山古墳は有名である。

熊本市北区打越町にある6世紀後半の装飾古墳。坪井川の谷に臨む京町台地の北東端に位置し,熊本県立清水が丘学園の裏手にある。径約30mの円墳で,南面に開口する横穴式石室をもつ。石室は辺長2.9mの正方形に近い玄室に,長さ2.8m,幅0.8mの細長い羨道を付設した構造をもつ。玄室の奥壁に板状の自然石を組み立てた石屋形(いしやかた)があり,その前方左右に2区の屍床を設けている。1948年の調査により,鏡,玉類,金環,刀,矛,鏃,馬具,須恵器土師器(はじき)など,多数の副葬品検出した。石屋形および左右の屍床の石材には,赤・青・白の3色で描いた同心円と連続三角形文の装飾があったが,現在では彩色は鮮明でない。

滋賀県高島市鴨にある6世紀前半の前方後円墳。琵琶湖西岸の沖積平野に位置し,南面する墳丘の全長は約50m,もと周濠をめぐらした跡がある。凝灰岩製の家形石棺を収めた横穴式石室の一部が後円部に残存するが,当初の規模は推定しかねる。1902年に石棺を開いて,棺内から金銅製の冠・履・魚佩,金製耳飾,鏡,玉類,環頭大刀,鹿角装大刀,斧,刀子などをとりだし,棺外から馬具,須恵器などを検出した。

群馬県藤岡市白石にある5世紀前半の前方後円墳。鮎川に面した洪積台地の縁辺に位置し,前方部を南西に向ける。全長140m,後円部径90m,前方部幅62m。葺石(ふきいし)および円筒埴輪列をめぐらし,後円頂部に家形埴輪および短甲形埴輪を据えていた。1933年の調査により,後円部から東西に並ぶ礫床2個を検出した。東棺内には石枕,鏡,玉類などのほか,石製模造品の案・杵・坩・箕・鎌・刀子・剣があり,西棺内には石枕,鏡,玉類,刀,銅製刀子把,櫛などのほか,石製模造品の案・杵・坩・屐(あしだ)・釧(くしろ)・刀子・剣・勾玉があった。両棺とも石製模造品の種類に富み,その量の多いことを特徴とする。

埼玉県行田市埼玉にある埼玉古墳群中の1基で,6世紀前半の前方後円墳である。現状は南面した前方部を失っているが,もと全長120m,後円部径62m,前方部幅74mほどあり,二重の周濠をめぐらしていた。1968年の調査によって,後円部から礫床と粘土床との二つの埋葬施設を検出した。そのうち礫床の副葬品には,有名な辛亥銘を金象嵌した鉄剣のほか,鏡,勾玉,銀環,金銅帯金具,刀剣,矛,鏃,斧,鉇(やりがんな),刀子,鉗(かなはし),挂甲(けいこう),馬具,環鈴,砥石などがあり,すべて国宝の指定を受けている。
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河原石を用いた全長5.7m,最大幅1.2mの舟形礫床にあった遺体の左脚外側に置かれていた全長73.5cmの鉄剣の表裏に115文字の金象嵌銘文の刻まれていることが,1978年奈良・元興寺文化財研究所における保存処理作業の過程で,X線透過撮影によって判明した。

 前半には上祖オホヒコ(意冨比垝)からこの銘文の主人公であるヲワケ(乎居)に至る8代の系譜が記され,後半には今まで代々〈杖刀人の首〉(親衛隊の長)として仕えてきたが,ワカタケル(加多支鹵)大王の朝廷(寺)がシキ(斯鬼)宮にあるとき,ヲワケがその統治を助けた記念として,この刀を作り来歴を記した旨が刻まれている。ワカタケル大王を大泊瀬幼武天皇(《宋書》倭国伝にみえる倭王武で,雄略天皇),シキ宮を大和の磯城に当て,辛亥年をその治世の471年に比定する説が有力である。またヲワケについては,この礫槨の被葬者をヲワケとし,〈杖刀人の首〉は律令制の兵衛(ひようえ)などに連なるものとみて,ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と,上祖オホヒコを記紀に阿倍臣や膳臣(かしわでのおみ)の始祖としてみえる孝元天皇の皇子大彦命とし,あるいは〈杖刀人〉は阿倍臣に従属する丈部(はせつかべ)であるとみて,ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれている。古代刀剣銘としては吉祥句を含まず,7世紀の造像記などに類例の多い〈何年何月記〉の書式で始まるのが特徴的であり,さらに文中にヒコ(彦)-スクネ(宿禰)-ワケ(別),あるいは〈臣(おみ)〉を含むなど,江田船山古墳出土の銀象嵌大刀銘とともに,日本で書かれた最古の金石文として,日本古代史の重要史料である。全文の表出作業が行われ,1983年に国宝に指定された。さきたま資料館(現,さきたま史跡の博物館)保管。
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日本歴史地名大系 「稲荷山古墳」の解説

稲荷山古墳
いなりやまこふん

[現在地名]藤岡市白石 稲荷原

かぶら川とあゆ川の合流点に近い鮎川左岸の北原きたはら台地に位置する大型の前方後円墳。付近一帯はかつて一八〇基ほどの大小の古墳が存在した白石しろいし古墳群であり、当古墳は同古墳群形成初期の段階に位置づけられる。昭和八年(一九三三)地元の人々によって主体部が確認されたのに端を発し、当時としては本格的な発掘調査が実施された。

稲荷山古墳
いなりやまこふん

[現在地名]高島町鴨 稲荷

かも川中流右岸に立地する古墳時代後期初頭の前方後円墳。県指定史跡。現在墳丘は完全に消失し凝灰岩製の家形石棺のみが残存するが、本来は南に前方部をもった全長約五〇メートルの規模を有していたと推定されている。明治三五年(一九〇二)付近の県道改修工事に伴う採土によって後円部より家形石棺が露呈し、初めて蓋を開いた。大正一二年(一九二三)本格的な学術調査が行われ、棺内に納められた副葬品に金銅製冠・沓・魚佩・金製耳飾・銅鏡・玉類・環頭大刀・鹿角装大刀・刀子・鉄斧などがある。

稲荷山古墳
いなりやまこふん

[現在地名]熊本市清水町打越

坪井つぼい川の谷に臨んだ県立白川学園の裏手に位置する六世紀後半の古墳。県指定史跡。昭和二二年(一九四七)一〇月発掘調査が行われ、第二次世界大戦後全国で最初の発掘といわれる。発掘時には天井石は墳丘の下にあり、天井部付近はひどく破壊されていた。直径約三〇メートル・高さ七メートルの円墳で、石室は南に開口し、一辺二・九メートルの正方形で、長さ二・八メートルの羽子板形の羨道を有する。

稲荷山古墳
いなりやまこふん

[現在地名]長尾町西 塚原

稲荷神社の裏山にある前方後円墳で、全長二七メートル、後円部の直径一〇メートル。昭和二六年(一九五一)に発掘調査が行われ、後円部から竪穴式石室を検出。石室は古墳の主軸に直交して構築され、側壁に川原石を用いている。全長六・〇五メートル、幅は西端が〇・九メートルで、東に向かって極端に細くなっている。

稲荷山古墳
いなりやまこふん

[現在地名]富津市青木 稲荷山

内裏塚だいりづか古墳群中の大型前方後円墳で、墳丘長一〇六メートル、二重の盾形周溝を含めた全長は二〇一メートル。括れ部幅が狭く、前方部の著しく開いた墳丘形態が特徴的である。墳丘裾に円筒埴輪列がめぐり、一部器財埴輪も確認されている。

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百科事典マイペディア 「稲荷山古墳」の意味・わかりやすい解説

稲荷山古墳【いなりやまこふん】

埼玉県行田市の埼玉(さきたま)古墳群内にある前方後円墳。全長120m。1968年後円部墳頂の礫槨(れきかく)墓から鏡,銀環,帯金具,鉄剣等の武器,馬具などの副葬品が出土。1978年保存修理中に,鉄剣の表裏にわたり115字の金象嵌(ぞうがん)の銘文が発見された。銘文中に〈辛亥年〉〈獲加多支鹵大王〉の文字があり,辛亥年は471年,獲加多支鹵(わかたける)は雄略天皇と解読された。乎獲居(おわけ)が杖刀人首(じょうとうにんのおびと)(武官の頭)として,大王に仕えたとの記述がある。これによって熊本県江田船山古墳の銀象嵌銘大刀にある〈大王〉も獲加多支鹵と判明した。大王の称号の存在,大和政権と地方豪族の関係など日本古代史解明への貴重な発見となった。
→関連項目大王埼玉古墳群天皇獲加多支鹵大王

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「稲荷山古墳」の解説

稲荷山古墳
いなりやまこふん

埼玉県行田市埼玉(さきたま)にある埼玉古墳群中最も北に位置する古墳中期の前方後円墳。1937年(昭和12)に前方部が採土工事で破壊されたが,墳長約120mほどとされる。後円部径62m,高さ11.7m。68年「さきたま風土記の丘」整備の一環として発掘され,後円部墳頂で粘土槨と礫槨(れきかく)を発見した。粘土槨は盗掘されてわずかな副葬品があったにすぎないが,礫槨は完全な形で検出され,金錯銘(きんさくめい)鉄剣をはじめ,画文帯神獣鏡・挂甲(けいこう)・直刀・矛・鏃(やじり)・轡(くつわ)・雲珠(うず)・鐙(あぶみ)・杏葉(ぎょうよう)・三環鈴・帯金具・玉類など豊富な副葬品が残されていた。その後の調査で,長方形の周濠を二重にもち,西側中堤には造出しが確認され,形象・人物埴輪が出土した。国史跡。

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国指定史跡ガイド 「稲荷山古墳」の解説

いなりやまこふん【稲荷山古墳】


⇒埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)

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世界大百科事典(旧版)内の稲荷山古墳の言及

【足羽山古墳群】より

…群の形成は4世紀から6世紀に及ぶ。調査を経た主要古墳として,山頂古墳,竜ヶ岡古墳,稲荷山古墳,宝石山古墳がある。墳形は判明していないが,古墳ごとで埋葬施設の形態が相違する。…

【姓】より

…その時期は,おそらく6世紀に入ってからで,すでにその萌芽は5世紀の後半にみられたであろう。《日本書紀》允恭天皇4年条などにみられる氏姓を定めるための盟神探湯(くかたち)の伝説は,姓の制度の発生の一端を伝える伝説であろうし,また埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘にワカタケル(獲加多支)大王の時代の人として乎獲居(臣)の人名が記され,称号としての獲居(ワケ,別,和気)の下に,姓的な臣の称呼がそえられてあるのは,姓の制度が成立してくる様相を端的に示している。姓の制度は,684年(天武13)に制定された真人(まひと),朝臣(あそん),宿禰(すくね),忌寸(いみき)など八色の姓(やくさのかばね)で一段と整ったものとなり,律令国家において皇親の下に諸貴族,諸氏族を身分的に秩序づける標識とされた。…

【埼玉古墳群】より

…築造者については秩父国造説,武蔵国造説などがあった。1968年に発掘調査された稲荷山古墳の礫槨から出土した鉄剣の剣身表裏に,金象嵌による115文字の銘文が発見されてから,考古学,古代史の分野で,銘文をめぐって各種の論が展開されている。66年から古墳群一帯の整備事業が行われ,さきたま風土記の丘として一般に開放され,資料館も設置されている。…

【書】より

…これらには漢字の音を借りた用字法が示され,漢字による国語表現の実際が明らかである。最近発見された埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣には,471年または531年と考えられる〈辛亥年七月〉をはじめ115字の金象嵌銘文があり,新資料として高く評価されている。しかし,書としてみるべきものは飛鳥時代以降に現れる。…

※「稲荷山古墳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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