朝日日本歴史人物事典 「立石孫一郎」の解説
立石孫一郎
生年:天保3.1.1(1832.2.2)
幕末の尊攘派志士。名は維敬,通称恵吉,敬之介(大橋)。播磨国佐用郡上月村(兵庫県上月町)の大庄屋大谷五右衛門喜道の長男。16歳で大庄屋見習になるが,藩役人と口論し母の実家美作国二宮村の立石正介に寄食。翌嘉永1(1848)年備中倉敷の庄屋大橋平右衛門の養子となり,敬之介と改名。その後尊攘派志士となる。慶応1(1865)年立石孫一郎と改名し長州藩南奇兵隊に入るが,翌年4月第二奇兵隊(南奇兵隊改め)を脱退。尊攘討幕を掲げて倉敷代官所および備中浅尾陣屋を襲撃した(倉敷浅尾騒動)。松山・岡山藩の追討を受けて逃亡し,頼りとした長州藩の銃撃により殺された。
(高木俊輔)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報