1933年1月のヒトラー内閣の成立で始まり,45年5月の第2次世界大戦におけるドイツの敗北によって崩壊した,ナチズム体制の公式の名称。ヒトラーは彼の帝国を,962年に始まる神聖ローマ帝国,および1871年にビスマルクの強力な指導力のもとに成立した第二帝制の後を継ぐドイツ民族による3度目の帝国とみなしたのである。ヒトラーがこのシンボルに飛びついて,宣伝の中心にすえたのは,1923年にメラー・ファン・デン・ブルックArthur Moeller van den Bruck(1876-1925)という右翼ナショナリストの思想家が同名の書を刊行したときからであったが,このシンボルが中世の神秘主義的な〈千年王国〉思想につながるところがあったこともまたヒトラーを魅惑したといわれる。
〈第三帝国〉の政治史,外交史は四つの時期に分けて考えられる。第1期は,第三帝国の確立期であって,ヒトラー内閣成立から1934年8月2日のヒトラーの〈総統Führer〉(大統領と首相職の一体化)就任までである。この時期に,内政面ではまず社会民主党,共産党ならびに労働組合の解散が強行され,その他自由主義政党,保守主義政党も〈自発的解散〉に追い込まれて(いわゆる〈強制的同質化(一元化)Gleichschaltung〉),早くも33年7月14日には政党新設禁止法が公布される。最初は国家人民党員ら保守派との連立政権(ナチ党員はヒトラーを含め3人のみ)だったヒトラー内閣もほぼナチ党員一色となり,ナチ党(ナチス)一党支配が確立される。その後,ナチ党の行動組織であった突撃隊Sturmabteilung(SAと略称)の指導部と伝統主義的な国防軍首脳部との対立を焦点に緊張が発生するが,ヒトラーは34年6月末,突撃隊参謀長レームを中心とする不満分子を粛清(いわゆるレーム事件)して国防軍の支持を確保し,大統領ヒンデンブルクの死を機会に総統=大元帥となる。外交的には,この間,国際連盟を脱退(1933年10月)するものの,国内での軍備強化に専念し,積極的対外行動は控える。
第2期は戦争体制への移行期であって,ヒトラー総統就任から38年3月のオーストリア併合の直前までである。この時期の内政面での重要なできごととしては,35年3月の徴兵制の導入と空軍建設公表,同9月のナチ党ニュルンベルク大会における一連の人種主義立法の公布,36年9月の〈4ヵ年計画〉の発表とその責任者へのゲーリングの任命(10月),そして翌37年末から38年初頭にかけてのナチ党と保守派財界人H.G.シャハトや陸軍首脳部の間の再軍備問題をめぐる対立があげられる。また,この間の対外政策の展開としては,35年3月のベルサイユ条約軍事条項の破棄,翌36年3月のロカルノ条約破棄とラインラント進駐によるベルサイユ体制打破の行動,そしてその直後に始まるフランス,スペインを中心とする人民戦線運動に対抗するなかでの独,伊,日のファシズム3国の世界的規模での提携への動き(スペイン内乱でイタリアと協力してフランコを支援,36年11月の日独防共協定,翌37年11月の日独伊防共協定)が中心である。
第3期はナチズム体制の爛熟と対外進出の成功の時期であって,これはオーストリア併合から1943年2月のスターリングラード攻防戦における敗北までである。この時期には内政面では,財界,外務省,陸軍に残る保守派が重要ポストから排除され,ナチ党指導部の対外進出の構想に基づいた国内秩序の方向づけが基本的に貫徹する。また,レーム事件以来突撃隊に代わって台頭して来た親衛隊Schutzstaffeln(SSと略す)がヒムラーHeinrich Himmler(1900-45)を頂点にして,国家秘密警察(ゲシュタポ)と強制収容所を管理し,民族裁判所も加わって法治主義が決定的にゆがめられる〈親衛隊国家〉が登場する。対外的には,38年3月の独墺合邦,同9月のミュンヘン会談を経て翌39年3月にかけてズデーテン地方の奪取とチェコスロバキアの解体,そして39年8月には,衝撃的な独ソ不可侵条約を成立させて東方の安全を確保したうえで,同9月,ポーランドに進入して,英仏両国の対独宣戦布告をひきだし,第2次世界大戦の口火を切る。その後,40年の前半,一連の〈電撃戦〉によって北欧,西欧の諸国を占領し,勢いに乗って同年9月,日独伊三国同盟調印とハンガリー,ルーマニアのこの同盟への参加まで実現するが,イギリス本土上陸作戦を実現できなかったことで反転して41年6月,独ソ戦に突入する。そして緒戦の勝利にもかかわらず,同年末,ドイツ軍の進撃はモスクワ近郊で阻止され,しかもそのなかで対米宣戦に踏み切ってさらに戦線を拡大し,やがて42年8月から始まったスターリングラード攻防戦で敗北と崩壊が決定的となる。
第4期は,スターリングラードでの敗北から45年4月30日のベルリン陥落のなかでのヒトラーの自殺を経て5月7日のデーニッツ政権による無条件降伏にいたる第三帝国の崩壊期である。そこでは,内政面においては,43年2月のゲッベルス宣伝相による〈総力戦〉体制樹立の宣言,そしてその1年前から軍需相となっていたシュペーアのもとでの軍需生産の最後の高揚,さらには,44年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件で表面化する陸軍の参謀将校を中心とする反ナチ運動の展開が見られる。対外的には,ドイツの占領地を中心にして強制収容所におけるユダヤ人らの民族皆殺し(ジェノサイド)や戦争捕虜の大量致死,労働力の強制調達や生体実験があり,後々まで指弾の的とされることとなる。
〈第三帝国〉を〈ナチズム体制〉と規定することは誤りではない。しかし,そこから,第三帝国においては,ナチ党のエリート,組織,イデオロギーが政治と社会のすべての領域をくまなく支配したと考えると事実に反する点が出てくる。第三帝国を〈全体主義国家〉の代表的な例と考えるのは常識であろうが,この点を注意する必要がある。第三帝国の基本的な権力構造がどうなっていたかを説明するためには,上記の四つの時期区分をもっと単純化して,1937年末から翌38年初めにかけて起こった一連の事件を境にして〈第三帝国〉前半期(前述の第1期と第2期)と後半期(第3,第4期)に分けるだけで十分である(〈二段階説〉と呼ばれる)。
前半期は,前述の〈政党新設禁止法〉以降,政党レベルでいえば一党独裁体制が確立したといえるし,君主制への復帰がありえないことも明らかになっていたといえる。しかし憲法体制からいえば,ワイマール憲法がわずか5ヵ条の全権付与法Ermächtigungsgesetz(1933年3月24日成立)によって,しかも4年間という期限付きで棚上げにされ,執行権(政府)による独裁体制が法制化されただけであった。そして新しい体制の実質的内容がどのようなものになるかは,ナチ党指導部が,ヒトラー内閣成立を契機に爆発した〈営業中間層闘争同盟〉や〈ナチス経営細胞〉それに行動隊組織として突撃隊に潜む急進的エネルギーと財界,国防軍,高級官僚ら伝統的支配層の利益のはざまにあって,どのような態度をとるかにかかっていた。しかしこの問題は前述のレーム事件を機会に,ナチ党内の急進派が流血のうちに切り捨てられ,ナチ党指導部が伝統的支配層との提携を選ぶという形で決着がつけられた。ヒトラーは,さしあたりは再軍備を国防軍の専門家集団にゆだね,その財政・金融面からの管理については,帝国銀行総裁と経済相を一身に兼ねるH.G.シャハトを頂点とする財界人の力を借りた。また労働組合を解散した後につくられた巨大なドイツ労働戦線Deutsche Arbeitsfront(2000万人の構成員と3万~4万人の常勤職員)は,〈経営共同体〉を理念とした(1934年1月の〈国民的労働秩序法〉)が,単位経営ではそれまでの経営者が〈経営指導者〉とされ,〈指導者原理〉が導入された。また,ドイツ労働戦線付属の〈喜びを通じて力をKraft durch Freude〉(歓喜力行団)という組織は,労働者の余暇を組織した(観劇,スポーツ,旅行)。
しかしこうした伝統的支配層とナチ党指導部の協力関係は,再軍備の展開のなかで崩れ,再編成されることになる。ワイマール共和制期にはベルサイユ条約の規定により7個師団10万人に限定されていた軍隊が,ヒトラー内閣成立後急膨張し,39年夏のポーランド侵攻時には陸海空あわせて51個師団100万人になったが,この過程で,それまでは〈恐慌からの脱出の方策〉として再軍備に協力したというシャハトが不安を感じて経済相を辞任(1937年11月26日),またその直前の11月5日,ヒトラーからドイツ民族の〈生存圏〉獲得のための侵略計画を打ち明けられた陸軍首脳部と外相ノイラートは驚愕する。そして38年初頭,外相の更迭(リッベントロップ外相の登場),陸軍首脳部のユンカー出身の将軍たちの大量の引退と配置がえが行われる。これは後の反ヒトラー派の運動の一つの出発点にもなるが,徴兵制の導入による軍隊の急膨張は軍内部における親ナチ派の将校や兵士の増大にもつながっていた。こうして始まる第三帝国後半期には,前述の〈親衛隊国家〉の登場という事態と並んで,国家機構の急膨張とナチの指導者たちがそれぞれの支配領域に〈独立王国〉を樹立しようとした結果としての百鬼夜行的状況がからまって,政策決定システムの頂点部における一定のアナーキーな状況(〈多頭制(ポリクラシー)〉)が生まれた。また戦争体制の確立とともに,〈喜びを通じて力を〉の運動も資金的に行き詰まり,最高賃金制と勤労奉仕のシステムが導入されるにいたった。また,農民向けの宣伝の中心におかれた〈世襲農場〉制も行き詰まって,農民の関心は〈生存圏〉獲得のための対外進出へと誘導されたし,最初はそれなりに重視されていた中小企業保護政策も戦争体制確立に向けての大企業優先政策に席を譲った。
前述の1944年7月20日の事件に関係していたのは陸軍の参謀将校だけではなかった。保守派の政治家やワイマール時代のカトリック中央党の関係者,社会民主党や労働組合の関係者もおり,中心になったシュタウフェンベルク大佐は共産党関係者とも連絡をとろうとしていた。しかし,全体としてこの運動はもはや大衆的支持を期待することはできず,〈成否を度外視して,後世への良心のあかしとして〉行動せざるをえない立場にあった。伝えられている〈第三帝国〉下の抵抗はショル兄妹(Hans Scholl(1918-43)とSophie Scholl(1921-43))の《白バラ通信Weisse Rose》の話を含めてそのほとんどが孤立無援の抵抗であった。
第三帝国の犠牲者はユダヤ人(400万~600万人)だけではない。〈安楽死計画〉の犠牲となった心身障害者約10万人,ジプシー約50万人,ポーランドの知識分子と指導層約100万人,ソビエトの〈政治委員殺害命令〉の対象と戦争捕虜の処刑47万人と300万人の餓死も加えられる。そうした事態を招くことになった入口での犠牲者は,ヒトラー内閣登場前後に街頭で殺害された者約500人,政治的理由で最初に強制収容所に入れられた者約2万7000人という。
執筆者:山口 定
史上まれに見る組織的で強力なナチスの独裁権力がふるわれたのは,政治の面だけにはとどまらなかった。新聞,放送,出版はもちろん,文学,美術,音楽,演劇,映画など,すべての文化領域にわたって〈強制的同質化〉が行われたのである。そしてそのためにとられた方策は,まことに巧妙でしかも迅速をきわめた。1933年2月27日の国会議事堂放火事件よりもさらに早く,芸術院に圧力がかけられ,ハインリヒ・マンをはじめ民主主義の立場に立つ作家,ユダヤ系の詩人たちはことごとくその地位から追われた。同年5月10日,ベルリンを頂点として全国の主要な大学都市でいっせいに行われた〈焚書〉は,そのことに関するナチス政権の意志を周知徹底させるための示威行動であった。こうして追放され,あるいは身の危険からまた抵抗のためにドイツから亡命した作家・知識人・ジャーナリストも多数であった。
これに代わって,アカデミズムや文学の場で,ナチスの好むドイツ民族の〈血〉や〈生命〉や〈精神〉が強調されるようになっていった。時期はやや遅れるが,表面的に目だつ行動としては,37年7月の〈退廃芸術展〉の開催があげられる。民族的な芸術を鼓吹する〈大ドイツ芸術展〉と同じ時期に,同じミュンヘンで,〈退廃的〉な造型美術作品が展覧されたのである。これらはいずれも非ドイツ的(ということは非ナチ的)なものの追放を目ざすキャンペーンであったが,それとともにもちろん,ポジティブな宣伝に,より多くの精力が注ぎ込まれた。33年3月21日,〈国民的興隆〉の日にポツダムで行われた新国会の開会式を手はじめに,ニュルンベルクで開催される党大会その他の公式行事には,ファンファーレ,行進曲,たいまつ,強力な投光器,林立する旗など,ありとあらゆる聴覚的・視覚的な手段が動員されて,国民を興奮と陶酔に誘い込んだ。聖火リレーをはじめて取り入れ,〈民族の祭典〉〈美の祭典〉(リーフェンシュタールのドキュメンタリー映画の題名)と名づけられた36年のベルリン・オリンピックもその例にもれない。すべてはゲッベルスの演出であった。〈いかなる宣伝も民衆的でなければならず,その知的水準は,目ざす相手の中でも最も愚鈍な連中の受容能力に応じたところにおかなければならない〉と《わが闘争》に書いたヒトラーは,ゲッベルスに宣伝の天才を見いだし,民族啓蒙・宣伝省を新設して,彼を大臣にすえたのである。こういう表面的な華やかさの裏側には,ヒムラーの率いる親衛隊,ゲシュタポによる強力な言論締めつけがあり,反ナチ主義者やユダヤ人は容赦なく強制収容所に送り込まれた。密告もさかんで,うっかり政府批判のジョークを飛ばそうものなら,それだけでつかまってしまうようなこともありえた。
しかし,こういう状況下での一般国民の生活は,少なくとも第2次大戦勃発までは決してそれほど悪いものではなかった。第1次大戦後のインフレとその後の不況との時代に比較すれば,失業者は減少し,通貨は安定して生活が向上し,労働者は〈歓喜力行団〉によって余暇を楽しむことができた。ヒトラーを崇拝し,ナチスの指導部を信頼する大衆は,ゲシュタポや強制収容所の恐怖を知ってはいても,自分には無関係のこととして見過ごし,政府が収める外交上の成果の数々に明るい未来を見ることができた。ヒトラーが38年12月に青少年教育について演説し,青少年をヒトラー・ユーゲントHitler-Jugendから次々にナチスの組織と国防軍に入れて鍛練すると述べたあとで,〈そうすれば彼らはもはや一生涯自由ではなくなるであろう〉と断言したとき,この恐ろしい言葉に嵐のようなかっさいを浴びせる大衆は,まさしくヒトラーとナチズムの魔術に眩惑されていたのである。これでは抵抗運動が広い基盤を持ちうるはずはない。ショル兄妹らのいわば精神的な抵抗運動は孤独な戦いに終わるほかはなかったし,44年7月のヒトラー暗殺未遂事件も,目睫の間に迫る破局を回避しようとする国防軍将校による試みであった。ナチス政権は国民みずからの選択の結果であったとはいえ,ドイツが最後まで内部崩壊を起こさず,ヒトラーがぎりぎりまで追いつめられたあげくに自殺できたことは,国民大衆がいかに強力な呪縛にかかっていたかを示すものといえる。
執筆者:関 楠生
ナチスは造形芸術をプロパガンダの一つと考えていたが,単純にいっさいが宣伝省や党の各種機関の指導のもとに一つのスタイルで動いていたわけではない。さらに近年,ファシズム研究が進むにつれて,ナチスとモダニズムを截然と分かつことも粗雑すぎることが明らかになっている。しかし,細部はともかく全体としては,ナチスの推奨する造形芸術が,世界制覇を目ざしアーリヤ人の優秀性を強調する文化のイデオロギーを免れていないことは事実である。実際,1933年にヒトラーが政権をとると,まもなく近代建築運動の中心であったバウハウスは閉鎖され,グロピウスをはじめとする多くの芸術家,建築家は国外に出,ワイマールにあったシュレンマーの壁画は塗りつぶされた。さらに37年には,完成したばかりのミュンヘンのドイツ美術館で〈退廃芸術展〉が開かれ,カンディンスキー,ココシュカ,マルク,ベックマン,ノルデらの作品が不健全なものとして展示されている。
ナチスが芸術のなかで最も重要視したのは建築である。政権獲得以前からヒトラーの世界戦略の構想と建築による民族文化の表現とは結びついていた。その結果,ナチス・ドイツは20世紀建築のなかに独特の形式を残すことになった。これは,未来派を吸収したムッソリーニのイタリア・ファシズムの建築ともちがっている。ナチスの選んだ様式は,ひと言でいえば新古典主義であり,それとともに地方的,民族的な様式が見られた。新古典主義はナチス・ドイツの政治的言語となり,古代ローマに範をとり,永遠性を強調し,さらに巨大性にとりつかれていた。しかし,これは記念碑的・象徴的な建築の場合で,工場,兵舎,低家賃住宅などでは機能性,合理性が率直に表現され,ほとんど近代建築といってよいものが少なくなかったことも忘れてはならない。同じことは自動車,ラジオなどの工業製品のデザインについてもいいうる。
最初のヒトラー付き建築家はトローストPaul Ludwig Troost(1878-1934)で,ミュンヘンにドイツ美術館,ケーニヒスプラッツの殉職者霊堂などを設計する。第三帝国時代の最大の建築家であり,現在からみても重要な存在はシュペアーであった。彼はニュルンベルクの党大会会場の膨大な計画の大部分の建物を担当する。ニュルンベルクのツェッペリン広場は,ベルリンの総統官邸とともに第三帝国時代に完成した代表的な作品である。ヒトラーは36年以来ドイツ各都市の改造を計画する。首都ベルリンの改造はシュペアーにゆだね,彼をその計画の〈建築総監〉に任じた。改造が進められた都市はおびただしい数にのぼるが,重要な都市には重要な建築家があてられた。ミュンヘンはH.ギースラーに,ドレスデンはW.クライスに,リンツ(ヒトラーの故郷)はR.フィックに,それぞれゆだねた。ギースラーがゾントホーフェンSonthofenに建てた〈オルデンスブルク〉(ナチス学校)は,シュペアーとは異なるタイプの建築の例であろう。アウトバーンの建設,それにともなう橋梁の意匠も,この時代を象徴するものの一つである。
〈退廃芸術展〉以後の美術界は惨状を呈しているが,ナチスの精神的価値を風景や肉体に表現することに終始した。代表的な作家としては彫刻のA.ブレッカー,J.トラク,画家のW.パクナー,F.エルラーなどがいる。彼らが戦後ほとんど復権が困難であったのは,音楽家などの場合に比較して興味のある事実である。グラフィック・デザインでは,H.シュワイツァー,L.ホルバインなどのポスターが直接的なナチスのプロパガンダの代表になる。
執筆者:多木 浩二
この語は最初,12世紀の神学者ヨアキム・デ・フローリスによる《ヨハネの黙示録釈義》のうちに現れた。それによると世界史においては,三位一体に従って三つの秩序(または国)があり,それが三つの時代となって展開するとされる。すなわち第1は父の秩序で,律法のもとに束縛されたユダヤ教の時代。第2は子の秩序で,新約聖書とキリスト教(教皇と司祭)の時代。ここでは自由は部分的にしか実現していない。第3は聖霊の秩序で,全き知識と自由にみちた時代である。ヨアキムによれば,この第3期は1260年に始まり,そのときにはドイツ,イタリア両国にまたがって教会を支配しようとしたフリードリヒ2世がアンチキリストとなり,他方フランシスコ会修道士たちが指導して歴史を完成させ,再臨のキリストを迎えるに至る,という。この教えの信奉者たちは,フリードリヒが1250年に死んだことで期待を裏切られたが,アッシジのフランチェスコこそ第3期の最初の指導者であったとして,既成教会と対立した。近世以降では,ヨアキムの名を引用しないまでも,教会の世俗化こそが第三帝国到来のための要件であるとして,これを進めることに歴史の進歩あるいは終末を見いだす考えが,レッシング,ヘーゲル,ドストエフスキー,シュペングラーなどにみられる。さらにナチスの〈第三帝国〉理念の背景ともなっているといわれるが,これについては次項を参照されたい。
執筆者:泉 治典
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ナチスの支配体制をいう。1933年1月成立。国会議事堂放火事件によってナチスの独裁体制が確立し,3月の全権委任法によって,ヴァイマル憲法は無効となった。34年6月末にはレーム以下が粛清されてエス・アー(SA)の大衆的組織が無力となり,代わってエス・エス(SS)が台頭した。ナチス独裁によって国民は画一化され,指導者原理によって「上部に対する服従,下部に対する権威」の体制がとられ,地方分権制は廃止され,ナチ党幹部がドイツ国家機構を独占して国家と党を画一化した。経済上では土木事業によって失業者を救い,ついで軍需生産と軍備の大拡張が始まった。農業上では世襲農場法が発布されて中農と大農の農地と生活が保護され,農産物価格の安定が図られ,工業上でも合成ゴム,人造石油その他の生産が進められて自給自足経済が進展した。しかし戦争準備体制であったから,有能な経済人の協力を得て生産力は急増したものの,しだいに生活の窮乏の危険が迫った。反ナチス派を大量に捕えて強制収容所に送り,拷問したり殺害した。外交はイギリスの支持を得たので成功し,35年に軍備を数倍にし,36年ロカルノ条約を破棄し,38年オーストリアとズデーテンを併合,39年には東欧諸国を征服してヨーロッパを制覇するために第二次世界大戦を引き起こし,45年滅びた。なお「第三帝国」の呼称は,第一帝国(神聖ローマ帝国)と第二帝制(ドイツ帝国)を超える,ドイツ民族の新しい「第三帝国」の意味で一般化したが,ナチ当局は39年以後公式には「大ドイツ帝国」の呼称を用いている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
ナチスの支配体制。一般的に、キリスト教神学では、キリスト以前の『旧約聖書』の時代を第一帝国、キリスト降誕以後の『新約聖書』の時代を第二帝国、紀元後1000年ころから始まる時代を第三帝国といった。哲学上では、物質的な世界を第一帝国、精神的な世界を第二帝国、両者を統合した理想の世界を第三帝国と称するが、「第三帝国」とは要するに理想的な人間社会をさすことばである。このためドイツ保守派の政治家や学者はナチス国家をドイツ民族の優れた性格が十分に発揮され、その世界的使命が達成される帝国と考えた。すなわち、中世の神聖ローマ帝国(962~1806)を第一帝国、ビスマルクの建てた帝制ドイツ(1871~1918)を第二帝国とし、ナチス支配体制下の国家(1933~45)を第三帝国とよんだ。この「第三帝国」は、いまではナチス・ドイツそのものをさす歴史的呼称となった。
[村瀬興雄]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…1904年,万朝報社に入り,翌年から同社海外通信員として8年間,欧米を中心に世界各地を訪れる。帰国後,大正政変に際し〈民本主義〉と〈小日本主義〉(満韓放棄論)を説いて活躍,13年旬刊誌《第三帝国》を創刊して,地方青年の啓蒙と組織化につとめた。14年,万朝報退社,16年《洪水以後》(まもなく《日本評論》と改題)創刊。…
…この統一問題は,革命を通じて現れてきた社会問題とともにその解決はこの後の政治の大きな課題として残されたのである。【坂井 栄八郎】
[近代と伝統]
48年革命から第三帝国の崩壊にいたるドイツ近・現代史の1世紀は,〈ナショナリズム〉と〈社会主義〉を二つの軸として展開したといっても過言ではない。しかもこれら二つの問題は,ナチズムNationalsozialismusのドイツ征覇に端的に示されているように,相互に深くかかわるものであった。…
…しかし,今日では,そうした全体主義支配はファシストの夢ではあっても,必ずしも十分には実現されなかったことが明らかにされてきている。厳密にいえば,このモデルにいちばん近いナチス〈第三帝国〉の場合でも,ヒトラーとナチ党による全体主義支配が成立したのは1938年以降の後半期であり,イタリアのムッソリーニの場合は,そもそもその成立自体を否定する研究者が多い。〈ヒトラー体制〉といわれるものも,実際には,H.G.H.シャハト(国立銀行総裁。…
…三位一体論と聖書解釈をもとに世界史を3期に分け,第1期は律法の下に俗人の生きる〈父の国〉の時代,第2期はキリストの下に聖職者が霊肉の間を生きる〈子の国〉の時代,第3期は自由な精神の下にヌルシアのベネディクトゥス以来の修道士が生きる〈聖霊の国〉の時代とした。この第3期(第三帝国)には〈山上の垂訓〉が厳格に守られなければならないとされる。ヨアキムはさらに,1260年には《ヨハネの黙示録》14章6節にいう〈永遠の福音〉がなり,教会制は終わって完全な霊的教会が誕生すると預言した。…
※「第三帝国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加