箕浦勝人(読み)みのうらかつんど

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「箕浦勝人」の意味・わかりやすい解説

箕浦勝人
みのうらかつんど

[生]安政1(1854).2.15. 大分
[没]1929.8.30. 東京
政治家。慶應義塾大学卒業後,報知新聞社に入り,藤田鳴鶴栗本鋤雲のもとで盛んに国会開設を提唱。のち社長に昇進。その後教育界に転じ,仙台,神戸,岡山などで中等学校長を歴任。 1881年大隈重信が下野して改進党結成するやこれに参加,第1回総選挙に際しては,大分県より衆議院議員当選政界に入った。その後逓信次官,衆議院副議長などを経て,第2次大隈内閣では逓相就任した。改進党から立憲同志会憲政会へと大隈とともに歩み政界の重鎮であった。 1926年松島遊郭移転事件連座,不遇な晩年を送った。

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改訂新版 世界大百科事典 「箕浦勝人」の意味・わかりやすい解説

箕浦勝人 (みのうらかつんど)
生没年:1854-1929(安政1-昭和4)

政治家。大分出身。慶応義塾卒業後,報知新聞社に入社し,大隈重信の率いる改進党に加わり,1890年帝国議会開設とともに衆議院議員となる。以後連続当選。農商務省商務局長,逓信次官等を経て1903年衆議院副議長に就任する。13年立憲同志会の結成とともにこれに参加し,幹事長に就任。大隈内閣の逓信相となり,憲政会に改組すると加藤高明総裁のもとで党の重鎮となる。しかし26年大阪の松島遊廓疑獄に連座したが無罪となった。その後は不遇をかこった。
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朝日日本歴史人物事典 「箕浦勝人」の解説

箕浦勝人

没年:昭和4.8.30(1929)
生年:安政1.2.15(1854.3.13)
明治大正期の政党政治家,言論人。豊後国臼杵本丁(大分県臼杵市)生まれ。父は臼杵藩士実相寺常之丞。同藩の箕浦家を継ぐ。明治7(1874)年慶応義塾を卒業後,郵便報知新聞社に入社。その後,宮城師範学校校長,神戸商業講習所所長などを勤め,12年郵便報知新聞社に戻り主筆となる。15年立憲改進党結成に参加,東京府会議員。20年郵便報知新聞社社長に就任(大正2年退職)。23年第1回衆院議員総選挙に出馬,当選。37年3月から41年3月まで衆院副議長。第2次大隈内閣で大正4(1915)年8月から5年10月まで逓信大臣。在任中,第3次電話拡張計画を実施するとともに簡易生命保険法を成立させる。15年大阪松島遊廓移転にかかわる疑獄事件に連座し政界を引退したが無罪。<参考文献>通信史研究所編『通信大臣列伝』下

(藤井信幸)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「箕浦勝人」の解説

箕浦勝人 みのうら-かつんど

1854-1929 明治-大正時代の政治家。
嘉永(かえい)7年2月15日生まれ。郵便報知新聞にはいり,明治27年報知新聞社長。この間立憲改進党結成にくわわり,23年衆議院議員(当選15回,憲政会)。大正4年第2次大隈内閣の逓信相。15年松島遊廓疑獄事件に連座して議員を辞職した(判決は無罪)。昭和4年8月30日死去。76歳。豊後(ぶんご)(大分県)出身。慶応義塾卒。本姓は実相寺。

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