箕浦庄(読み)みのうらのしよう

日本歴史地名大系 「箕浦庄」の解説

箕浦庄
みのうらのしよう

現近江町箕浦を遺称地とし、現米原町番場ばんばに広がる地域に比定される皇室領庄園。領家は妙法院門跡。「明月記」建保元年(一二一三)一二月六日条に「近江箕浦庄」とみえ、後鳥羽上皇吉富よしとみの一庄であるという当庄の預所源有雅を解任し、その職を医王に与えている。当庄は藤原定家の外祖父が預所職を留保して後白河院に寄進したものであったが、院がこれを奪い、天台座主弁雅僧正に付し、弁雅没後は藩原宗頼に与えていたものであったという。寛喜三年(一二三一)八月二一日、丹治信員は父実員より譲られた当庄内一所の地頭職などを安堵されている(「将軍藤原頼経御判下文案」八坂神社文書)。同年九月七日妙法院門跡綾小路宮尊性は当庄の伊勢奉幣駅家役免除を申請し、証拠文書の提出を命ぜられ、一一日に証文本庄吉富庄が持っているがなお調べると答え、結局一四日に免除されている(民経記)。寛元三年(一二四五)四月一七日、公性は摂津四天王寺念仏三昧院領の当庄などを太政法印に譲っているが、預所は承慶法眼で、故二品親王(尊性か)の時から同門跡領になったという(「公性譲状」妙法院文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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