しゅく‐そう【粛宗】
[二] 中国、東晉第二代の皇帝、明帝(
在位三二三‐三二五)の廟号。姓は司馬。名は紹。字
(あざな)は道畿。寛容で
文武にすぐれていた。
[三] 中国、北魏第八代の皇帝、孝明帝(在位
五一八‐五二八)の廟号。宣武帝の子。姓は元。名は詡
(く)。六歳で
即位し、母の
胡太后が
摂政となる。のち、
太后の
専横を憎み、遂に太后に鴆
(ちん)の毒で殺された。
[四] 中国、唐第七代の皇帝(在位
七五六‐七六二)。玄宗の子。姓は李。名は亨
(こう)。安祿山の乱の時、玄宗に代わって帝位につき、
西京(長安)を収復した。
[五] 高麗一五代の王(在位
一〇九六‐一一〇五)。文宗の子。字
(あざな)は天常。諱
(いみな)は凞
(き)。のちに顒
(ぎょう)と改める。諡
(おくりな)は明孝。五経子史に通じ、
貨幣の制を整え、
仏教を尊んだ。
[六] 朝鮮、李朝第一九代の王(在位
一六七五‐一七二〇)。南西党論の
紛争の激烈な時代に、西人と南人の両派に擁立された
実権のない
名目だけの王。
[七] 安南、黎朝第六代の王(在位
五〇四)。在位七か月。名は
、また、
。段世儂などの乱を平定した。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
粛宗
しゅくそう
Su-zong; Su-tsung
[生]景雲2(711)
[没]宝応1(762)
中国,唐の第7代皇帝 (在位 756~762) 。玄宗の第3子。姓は李。諱は享。諡は文明武徳大聖大宣孝皇帝。母は元献皇后楊氏。開元 26 (738) 年皇太子となる。安史の乱の際,四川に逃れた玄宗と別れて,北西方の霊武 (寧夏回族自治区霊武県) で即位。ここを根拠にウイグルなどの援兵を請い,翌年長安や洛陽を奪回したが,なお乱の勢力は残り,ほとんど戦禍のうちに治世を終った。一方,皇后張氏や宦官李輔国の権勢を押えることができず,またこの両者の間に生じた抗争を解決することもできずに没した。
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世界大百科事典(旧版)内の粛宗の言及
【玄宗】より
…玄宗は蜀(四川省成都市)に逃れたが,貴妃と楊国忠は途中の馬嵬(ばかい)駅で殺された。翌年,朔方に逃れた粛宗が即位し,上皇となった玄宗は757年(至徳2)に長安へ帰り興慶宮に入った。けれども復辟を恐れる粛宗との間に不協和音が絶えず,また玄宗側近の[高力士]と粛宗側近の李輔国という宦官どうしの対立もあり,760年(上元1)には西内の甘露殿に移され,幽閉同然の余生をおくり2年後の4月,悶々のうちに世を去った。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」