糖鎖工学(読み)とうさこうがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「糖鎖工学」の意味・わかりやすい解説

糖鎖工学
とうさこうがく

糖鎖を人工的に改変し、さまざまな目的に適した糖物質をつくる研究・開発分野。糖鎖は、天然に存在するブドウ糖等が複雑な鎖状連結・重合した物質である。核酸、タンパク質に続く第三の生命鎖(生命活動にとって重要な役割を果たす高分子物質)とも称され、細胞膜細胞表面に多く存在しており、おのおの重要な機能や役割を担っている。さらには、糖鎖にタンパク質や脂質が結合した、糖タンパク質糖脂質も糖鎖であり、その重要性が次々に解明されている。糖タンパク質のなかには、レクチンと称されるタンパク質がある。レクチンは、植物・動物・キノコ等の菌類など多種類の生物で発見された、比較的新しい物質であり、どれも糖と結合する能力をもつタンパク質である。

 こうした物質は細胞間の情報伝達にも関与している。ヒト赤血球の血液型(A・B・AB・O型)は結合している糖鎖の組合せに依存することは以前から知られていたが、糖鎖工学ならびに糖鎖の解析装置などの進歩は、病気の発生の仕組みの解明等の基礎研究のみならず、医薬品開発にも貢献している。

 例をあげれば、がん発症の仕組みの解明や、がんの診断薬であるバイオマーカー(生物の体内に由来する物質のなかでも、とくに医学・診断分野で体の状態の変化を数値化して把握する際に指標となる物質をさす)への利用などがあげられ、実際に、肝臓疾患の進行度を測定するシステムが開発され、すでに製品化されている。

 医薬品開発の分野では、2000年代はじめ、アメリカのアムジェン社Amgen inc.は、遺伝子組換え技術と糖鎖工学技術を活用して、特定の透析患者にみられる貧血に有効な製剤を開発し、日本を含め世界各地で販売している。

 糖鎖工学は、糖鎖の改変による医薬品の効能・効果の増進や新しい医薬品の開発にも応用されている。たとえば、インフルエンザ用薬リン酸オセルタミビル(商品名「タミフル」)やザナミビル(同「リレンザ」)に糖鎖工学が応用されている。多数の糖鎖がついている細胞の表面は糖のコートを着たようであることから糖衣ともよばれるが、インフルエンザウイルスがヒトの体内に侵入する際、まずこうした糖衣、とくにシアル酸とよばれる酸性の糖(糖鎖)に結合して細胞内に入り込み増殖する。次にそのシアル酸を特定の酵素で分解して細胞外に飛び出し、さらに増殖しようとする。そこで、この特定の酵素にシアル酸よりも先に結合してその働きを阻止しようとするのが、「タミフル」や「リレンザ」である。シアル酸の糖鎖構造が解析され、さらにそれと似た構造の物質が合成可能になった成果である。

 糖鎖工学は、上記の分野以外にも、人工臓器、機能性表示食品・サプリメントなどの幅広い分野への応用可能性をもつ技術であり、国立研究開発法人理化学研究所(理研)や国立研究開発法人産業技術総合研究所(産総研)のような日本有数の研究機関をはじめとして、大学や地域クラスター(地域における産学官の連携により構築された集団)などでも、糖鎖や糖鎖工学に関する研究が推進されている。そして、糖鎖分析や解析などに優れた技術をもつ株式会社グライコテクニカや、糖鎖の修飾・製造の基盤技術を活用したバイオ医薬品の開発を目ざす株式会社糖鎖工学研究所をはじめとしたベンチャー企業が誕生している。

[飯野和美 2020年8月20日]

『安藤幸来著『糖鎖のチカラ――病気を防ぎ病気を治す』(2005・四海書房)』『産業技術総合研究所著『きちんとわかる糖鎖工学』(2008・白日社)』『平林淳著『糖鎖とレクチン』(2016・日刊工業新聞社)』『笠井献一著『岩波科学ライブラリー290 おしゃべりな糖――第三の生命記号、糖鎖のはなし』(2019・岩波書店)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

知恵蔵 「糖鎖工学」の解説

糖鎖工学

糖鎖を人為的に変化させて、たんぱく質や細胞の機能を改変する技術・研究分野。糖鎖は、グルコース(ブドウ糖)やガラクトースなどの単糖が鎖状に結合したもので、この糖鎖がたんぱく質の表面などに結合している。たんぱく質の半数以上は糖鎖が結合している。これらの糖鎖は細胞内・細胞間の情報伝達において重要な役割を果たす。糖鎖工学は、生理活性を示す糖鎖の単離・精製、糖鎖の構造と機能の解析、糖鎖を生合成する酵素(糖転移酵素)や、その遺伝子の解明、糖鎖を変化(修飾)させる技術の開発などを目指す。がん、炎症、感染症などへの糖鎖関連医薬品の開発が進んでいる。

(川口啓明 科学ジャーナリスト / 菊地昌子 科学ジャーナリスト / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

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