紀伊湊(読み)きのみなと

日本歴史地名大系 「紀伊湊」の解説

紀伊湊
きのみなと

紀ノ川河口付近にあった紀伊国の要津。紀ノ川の流路が変わるごとに湊の位置は移動したと思われるが、記紀に登場する「男之水門」「紀伊水門」の系譜を引くものと考えられる。「日本書紀」神武天皇即位前紀は「茅渟ちぬ山城水門やまきのみなと(現大阪府泉南市に比定)を「雄水門をのみなと」とするが、「古事記」神武天皇段には「紀国の男之水門」とみえ、「日本書紀」神功皇后摂政元年条にも「時に皇后、忍熊王いくさを起して待てりと聞しめして、武内宿禰に命せて、皇子を懐きて、よこしまに南海より出でて、紀伊水門に泊らしむ、皇后の船、直に難波を指す」とある。紀伊水門は同書雄略天皇九年三月条の記述からも推測されるように、大和政権の朝鮮出兵の出撃基地として利用され、この地域の多くの豪族が朝鮮半島に渡ったことであろう。神功皇后の伝承は五世紀後半の朝鮮出兵の事実を反映したものと思われる。五世紀後半の大和政権にとって、紀伊水門は吉野川から紀ノ川そして紀伊水門・瀬戸内海へとつながる河川交通と海上交通の結節点として、重要な位置を占めた湊であったと推定される。

〔中世〕

一一世紀中葉の紀ノ川河口の湊は、永承三年(一〇四八)名草郡郡許院収納米帳(九条家本「延喜式」巻八裏文書)吉田よしだ津・平井ひらい津がみえる。また、「宇治関白高野山御参詣記」の同年一〇月一八日条に「御湊口」とある。「平家物語」巻一〇(横笛)には「和歌吹上・衣通姫の神とあらはれ給へる玉津島明神、日前・国懸の御前をすぎて、紀伊の湊にこそつき給へ」とみえる。玉津島たまつしま社・日前国懸ひのくまくにかかす社の前を通り過ぎるのだから現和歌川の北部に紀伊湊があったとみられる。一一世紀中葉には紀ノ川は西流し、平井の辺りから南下し、吉田の西を通って現和歌川を流れていたと推定され、紀伊湊は平井から大きく弧を描いた屈曲部にあったと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報