改訂新版 世界大百科事典 「細川藤孝」の意味・わかりやすい解説
細川藤孝 (ほそかわふじたか)
生没年:1534-1610(天文3-慶長15)
戦国末期~近世初頭の武将,文化人。三淵晴員の子で,細川元常の養子。兵部大輔,幽斎玄旨と号する。足利義輝の御供衆であったが,義輝が松永久秀らに殺されるにおよび,その弟一乗院覚慶(義昭)を擁立。1568年(永禄11)織田信長入京のときには足利軍の大将として奮戦,山城勝竜寺城城主となる。義昭と信長不和のときは信長にくみし,姓を長岡と改める。その後は,おもに明智光秀とともに丹波,丹後の攻略に当たり,80年(天正8)丹後の国主となる。82年本能寺の変には光秀の誘いを退け,剃髪し家督を忠興に譲った。和歌,連歌,鞠,太鼓,料理,茶道,儒学,書道,故実に通じ,当代有数の教養人であった。《伊勢物語》などの古典文学の書写校合も多く,乱世に伝統文化を継承した功績は大きい。豊臣秀吉,徳川家康にも厚遇された。
執筆者:高木 傭太郎 幽斎は中世末期から近世初期の歌壇の中心的存在で,二条派の正統を伝え発展させた。三条西実枝(さねき)に師事して古今伝授を受け,九条稙通(たねみち)からは《源氏物語》の奥義を受けた。また紹巴(じようは)などと連歌もよくした。弟子は智仁(としひと)親王,烏丸光広(からすまるみつひろ),中院通勝(なかのいんみちかつ)らの堂上(とうしよう)歌人はじめ,地下歌人,武人など幅広い。彼の口述を烏丸光広が筆記した歌論書《耳底記(にていき)》があるほか,家集《衆妙(しゆうみよう)集》,歌学書《聞書(ききがき)全集》,古典注釈《百人一首抄》その他の著作が伝存。
執筆者:柳瀬 万里
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報