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細川重賢 【ほそかわしげかた】

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世界大百科事典 第2版の解説

ほそかわしげかた【細川重賢】  1720‐85(享保5‐天明5)

熊本藩主細川家8代。6代藩主宣紀(のぶのり)の五男。幼名紀雄。兄宗孝の仮養子であった1747年(延享4)宗孝が江戸城旗本板倉勝該(かつかね)に斬られて不慮の死を遂げ,にわかに封を継ぎ8代藩主となった。当時熊本藩は連年財政困難にあり,参勤交代・江戸藩邸の費用にも事欠くありさまであった。重賢は藩主に就任すると堀勝名を大奉行抜擢(ばつてき)して藩政改革にとりかかった。まず綱紀粛正を図り,行政機構の整備刑法草書制定,財政再建に向けての地引合(じびきあわせ)(検地一種)による隠田の摘発と定免(じようめん)制(農民反発により延期),櫨(はぜ)・楮(こうぞ)の専売藩士知行減法を行ったほか,藩校時習館を建てて人材育成を図り,農商人の子弟でも俊秀の者には門戸開放した。


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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

細川重賢 ほそかわ-しげかた
 
1721*-1785 江戸時代中期大名
享保(きょうほう)5年12月26日生まれ。細川宣紀(のぶのり)の5男。兄細川宗孝養子となり,延享4年肥後熊本藩主細川家6代。堀平太左衛門を大奉行に登用し,殖産興業奨励,藩校時習館を設置するなど,藩政刷新成果をあげた。天明5年10月26日死去。66歳。初名は紀雄。幼名は六之助。号は銀台。
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。収録人物のデータは2009年1月20日現在のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

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百科事典マイペディアの解説

細川重賢 【ほそかわしげかた】

江戸中期の肥後(ひご)熊本藩主。1747年襲封。就任と同時に綱紀粛正を図り,治水開墾植林産業振興民政に努め,財政困難にあえいでいた熊本藩を立ち直らせた。また藩校時習館,医学寮再春館を設置名君と称された。 (1720-1785)
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大辞林 第三版の解説

ほそかわしげかた【細川重賢】
 
(1720~1785) 江戸中期の熊本藩主。号は銀台。殖産興業政策や藩校時習館設置などの文教政策を推進,江戸中期藩政改革の好例とされる。


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美術人名辞典の解説

江戸後期の肥後熊本藩主。宣紀の五男、母は岩瀬氏、兄宗孝の養嗣子。初名は紀雄、通称は六之助・民部・主馬、号を銀台。学を好み、賢を愛し、国内をよく治めた。天明5年(1785)歿、66才。


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デジタル大辞泉の解説

ほそかわ‐しげかた 〔ほそかは‐〕 【細川重賢】
 
[1720~1785]江戸中期の熊本藩主。倹約を奨励し、また、藩校時習館開設殖産事業尽力して藩政の改革に努めた。

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世界大百科事典内の細川重賢の言及

【熊本藩】より
…肥後国飽田郡府中(現,熊本市)に藩庁を置いた外様大藩。1587年(天正15)佐々成政が隈本城に封ぜられたのが起りで,領域は球磨郡を除く肥後国12郡であった。成政は翌年起こった肥後一揆の責を負って尼崎で切腹,肥後国は豊臣秀吉子飼の加藤清正(北半国19万石)と小西行長(南半国14万石)に分与された。この間秀吉の上使衆によって球磨郡を除く肥後国検地がなされ,肥後54万石の表高が確立した。ついで1600年(慶長5)清正は関ヶ原の戦で西軍に属した小西行長の旧領を合わせ,さらに同年天草郡と豊後国直入,大分,南海部3郡内との替地を許され,ここに肥後国の大半と豊後3郡にまたがる熊本藩領54万石が確定した。…
【博物学】より
…享保年間(1716‐36)には幕府の殖産興業政策によって物産学が盛んになり,博物学のすそ野が拡大された。この時期には田村藍水,平賀源内,小野蘭山,宇田川榕菴らの学者のほか,《目八譜》の武蔵石寿,《毛介綺煥(もうかいきかん)》《昆虫胥化(しよか)図》の肥後藩主細川重賢,《雲根志》の木内石亭,木村蒹葭堂(けんかどう)などのアマチュア博物学者も活躍した。 一方,17世紀からは断片的ではあるが西洋博物学の知識も入りはじめ,中でもドドネウスの《草木誌》とヨンストンの《動物図説》は当時の本草学に大きな影響を与えた。…
【藩政改革】より
…だから,大名を補佐する執政に恵まれるとき,藩政の再構築を目ざす藩政改革がみられることになる。この典型としては,肥後熊本藩54万石を受け継いだ第6代細川重賢(しげかた)と家老堀勝名の関係,陸奥会津藩28万石の第5代松平容頌(かたのぶ)と家老田中玄宰との関係,そして,出羽米沢藩15万石の第10代上杉治憲(はるのり)(鷹山)と改革派を代表する竹俣当綱(たけのまたまさつな)との関係をあげることができよう。 上杉治憲が名君の典型であったことはよく知られているが,彼は日向国高鍋藩主秋月氏の次男として生まれ,部屋住上がりの辛酸をなめていた。…
【肥後国】より
…旧国名。肥州。現在のほぼ熊本県に当たる。
【古代】
 西海道に属する大国(《延喜式》)。古くは火の国の一部。《日本書紀》持統10年(696)条に,〈肥後国〉とあるので,このころまでには火の国は,火(肥)の前(さき)の国と火(肥)の後(しり)の国に分国したと思われる。大化前代,肥後国の地方には,玉名郡の菊池川流域に日置氏,阿蘇地方に阿蘇君,宇土半島の基部より氷川流域を中心に火(肥)君,八代市南部の葦北君,熊本市の白川下流域に建部君などの豪族が蟠踞(ばんきよ)していたが,その最大の豪族は火君であった。…
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細川重賢に近い言葉→赤埴重賢|細川嘉六(ほそかわ・かろく、1888~1962)|吉田重賢|森川重高|兵庫県三木市細川町細川中|徳川重好|小野重賢|伏屋重賢|細川幽斎(1534~1610)|松川重明

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