第2次大戦後の経済危機を乗り切るには各省庁業務を強力かつ一元的に指導する機関が必要であるとして,1946年8月,臨時に設置された重要経済行政の総合企画・統制官庁。略して安本(あんぽん)とも呼ばれた。経済企画庁の前身。総裁は内閣総理大臣が,総務長官(物価庁長官を兼任)は国務大臣が兼任し,広く官民の有識者を集めた。発足当初の定員は316人で5部制をとり,それぞれ生産資材の生産配給,食糧や生活必需物資の配給消費,物価等々にかんする施策を分担した。発足にあたってはGHQと非公式の協議が重ねられた。設立当初はインフレを抑制し,過少生産を解消するための傾斜生産方式の指導中枢機関となって活動した。47年3月,GHQは経済安定本部が経済・金融統制のより強力な措置をとることを要請したが,こうした動きの中で5月に同本部の機構は改革され,1官房10局(生産,建設,貿易,交通,財政金融,生活物資,動力,物価,労働,監督)2部48課に拡張され,地方に経済安定局を設置し,2000人を擁する大官庁となった。同年6月には経済緊急対策が閣議決定され,同本部はこの具体的施策を立案するとともに,7月には〈経済実相報告書〉(日本初の経済白書)を作成,48年には単一為替レート設定をめぐりその影響を想定,検討する作業を行うなど幅広く活動した。49年の行政整理では1官房6局に縮小され,これ以降業務は縮減の過程をたどった。52年8月には廃止され,代わって経済審議庁が設立され,総理府の外局として,経済に関する基本政策の企画調整,経済の動向調査,長期経済計画の策定などを任務としたが,55年7月経済企画庁に改編された。
執筆者:坂本 雅子
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第2次大戦後に設置された経済政策に関する企画調整官庁。1946年(昭和21)8月12日発足。総裁には内閣総理大臣が,総務長官には国務大臣があたった。戦後経済の復興と安定のため,GHQの強い要請もあり設置された。経済施策の企画立案,各庁事務の総合調整,統制の推進を所管し,傾斜生産方式による再建策の立案,主要物価の設定などにあたった。政府の公式計画にはならなかったが,経済復興計画も立案。47年には国民に理解を求める「経済実相報告書」を発表,経済白書の出発点となった。施策は経済統制的要素が強く,経済復興にともなう統制の撤廃もあり,49年6月他の官庁並みとなる機構上の改革が進んで漸次縮小,52年8月経済審議庁に改組された。
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第二次世界大戦後の経済復興のために、1946年(昭和21)に設けられた行政機関。物資の生産・配給および労務、物価、金融等に関する経済の緊急施策につき、企画立案、各庁事務の統合調整など経済統制を中心に総合的な経済政策の展開を担った。統制政策の緩和とともに52年7月廃止され、その事務は52年8月に発足した経済審議庁に受け継がれた。その後、同審議庁は55年に経済企画庁になり、さらに同庁は2001年(平成13)中央省庁の再編統合により内閣府となった。
[平田和一]
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…なお,44年から45年までの間に総合計画局が設置されている。第2次世界大戦後における経済政策に関する企画調整機関としては,46年8月経済安定本部が設置され,これが今日の経済企画庁の直接の前身と目される。同本部は内閣総理大臣の管理に属し,破局にした経済の安定と復興のための緊急施策について,基本方針の企画立案,各省庁間の総合調整等の強力な機能を発揮したが,経済の復興に伴い,52年8月,国の経済政策に関する調査,企画,調整を主とするスタッフ的機関としての経済審議庁に改組され,ついで55年7月経済企画庁とされた。…
※「経済安定本部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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