出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
江戸の人形芝居の太夫・座元名。現在まで11代を数えるが,その伝系については不明な点が多い。初世は17世紀後半から18世紀前半にかけて江戸の説経節の太夫として活躍,17世紀後半に江戸の葺屋町で説経節の芝居小屋結城座を創設した。《越前国永平寺開山記》《法蔵比丘》などの正本を残している。2世以降の伝記はほとんど不明であるが,太夫としてよりも,座元ないしは名代名として存続しており,3世は1775年(安永4)に没している。説経節が衰えると,義太夫芝居や素浄瑠璃,子供芝居を上演していたことが番付類や《旧記拾葉集》その他の資料に散見する。その間,興行不振でしばしば休座もしており,1830年(天保1)に6世孫三郎が再興した記録がある。1900年,東京市村座の舞台で糸操(あやつ)りを始めた結城孫三郎(1871-1947)は8世の甥と称して9世を名のった。本名田中清太郎,幕末の写絵師両川(りようかわ)亭船遊の子で,明治から大正,昭和にかけて活躍,糸操りの結城座の地位を確立した。彼の死後,その子結城一糸が10世を継ぎ,テレビ,寄席,地方興行などをつづけ,現在はさらにその長男の一糸が11世孫三郎を継いで,東京都武蔵野市吉祥寺本町の稽古場を本拠に活発な興行活動をつづけている。古典のほかに新作物も多く手がけ,戦後,東京都無形文化財に指定された。なお,10世の次男は両川船遊を名のり人形遣いと写絵師を兼ねている。
執筆者:諏訪 春雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
糸操りの人形遣いの名跡(みょうせき)。初世は説経節の太夫(たゆう)で、1635年(寛永12)江戸葺屋(ふきや)町に説経節の人形芝居結城座の櫓(やぐら)をあげたといわれる。その後、代々結城座の座元として幕末まで操芝居(あやつりしばい)を興行していたようだが、2~8世の伝記は未詳。明治から大正・昭和初期にかけて活躍した9世孫三郎(1870―1947)は写し絵師両川亭船遊(りょうかわていせんゆう)の子で、従来の糸操りを大改革し、義太夫(ぎだゆう)物のほかに歌舞伎(かぶき)仕立ての各種浄瑠璃(じょうるり)や長唄(ながうた)物から新派劇にも手を広げ、優れた技術によって名人といわれた。10世(1907―97)は9世の長男。前名一糸(いっし)から、父の没した直後の1947年(昭和22)に孫三郎を襲名。一座を率いて、実験放送時代からテレビに進出し、俳優との共演も含め多くの新作人形劇を手がけ、また各地の学校を巡演して糸操りの啓蒙(けいもう)に貢献した。72年に長男の2世一糸に孫三郎の名跡を譲り、雪斎(せっさい)と改名した。11世(1934― )は父の業績を受け継ぎ、さらに前衛劇的な作品を含めた野心的な公演や海外公演などで、旺盛(おうせい)な活動を続けたが、事情あって名跡を返上。現12世(1943― )は10世の次男。前名の両川船遊から93年(平成5)に孫三郎を襲名した。
[松井俊諭]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…日本の糸操りは結城(ゆうき)人形座や竹田人形座が発展させてきた。現在の結城孫三郎(まござぶろう)は11代目で,初代は寛永年間(1624‐44)に江戸で結城座の座元であった。10代目の孫三郎は芥川竜之介の《杜子春》を脚色上演して注目されたことがある。…
※「結城孫三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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