日本大百科全書(ニッポニカ) 「緒方惟準」の意味・わかりやすい解説
緒方惟準
おがたこれよし
(1843―1909)
幕末・明治の医学者。緒方洪庵(こうあん)を父に大坂に生まれる。幼名は平三、のちに章、洪哉、惟準と改めた。洪庵の長男が夭折(ようせつ)のため嗣子(しし)となる。12歳のとき、父命により弟平三(後の惟孝(これたか)、1845―1905)と大聖寺(だいしょうじ)(石川県加賀市)の渡辺卯三郎(うさぶろう)(1831―1881、元適塾生)のもとで漢学が主、蘭学(らんがく)が従の教育を受けたが、蘭学専念の希望が強く、越前(えちぜん)国大野(福井県大野市)の洋学館長伊藤慎蔵(元適塾塾頭)のもとに走った。洪庵は両人に勘当を宣告、3年後に「勘気免ぜられて帰坂の恩命を蒙(こうむ)る」と後年の自伝にいう。その後、長崎でポンペ、続いてボードイン、ハラタマKoenraad W. Gratama(1831―1888)に師事。洪庵没後、江戸の医学所教授、御番医師となり、1866年(慶応2)オランダのユトレヒト大学に留学、幕府崩壊の報で帰国した。1868年(慶応4)朝廷に召されて、典薬寮医師、玄蕃少允(げんばしょうじょう)となり、医学所が再開される際は取締となった。続いて大阪の医学伝習御用掛となり、大阪仮病院長、大阪医学校長を務め、恩師ボードインを学校に迎えた。1873年(明治6)、学制改革で大阪医学校は廃校となり、惟準は陸軍軍医となった。大阪鎮台病院長、軍医学校長、軍医本部次長を経て、近衛(このえ)師団軍医長を最後に、1887年辞職した。以後、緒方一族は協力して大阪で緒方病院を創立、院長となった。他方、高橋正純(1835―1891)らとともに大阪慈恵病院(大阪市立弘済院付属病院の前身)を設立して社会福祉に努めた。銈次郎(1871―?)、知三郎、章の3子はそれぞれ内科学、病理学、薬学を専攻。
[藤野恒三郎]