世界大百科事典(旧版)内の織田敏定の言及
【尾張国】より
…75年(文明7)ころには越前・遠江を朝倉・今川の両氏に奪われた西軍の将斯波義廉が尾張に下り,織田敏広が守護代となった。しかし78年幕府は斯波義敏の子義良(よしすけ)を守護に,織田敏定を代に任じ,義廉・敏広らの討滅を命じた。敏定は尾張に入部して清須に拠り,敏広方は美濃の斎藤妙椿の援をうけてこれに対決した。…
※「織田敏定」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
…75年(文明7)ころには越前・遠江を朝倉・今川の両氏に奪われた西軍の将斯波義廉が尾張に下り,織田敏広が守護代となった。しかし78年幕府は斯波義敏の子義良(よしすけ)を守護に,織田敏定を代に任じ,義廉・敏広らの討滅を命じた。敏定は尾張に入部して清須に拠り,敏広方は美濃の斎藤妙椿の援をうけてこれに対決した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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