一般に,自分の手先の技術により物を生産することを職業とする人をいい,その技術は,独自の徒弟制度により伝習されてきた。だが中世の日本では,在庁官人や芸能民なども広く職人と呼ばれていた。
ヨーロッパにおける職人の伝統は,ローマ時代の手工業者の組織であるコレギウムと初期中世の修道院や宮廷における技術者養成機関にさかのぼる。ローマのコレギウムは,キリスト教の受容とともに相互扶助を行う兄弟団的結合に変わっていったとみられる。11世紀ごろロンバルディアのコモ地方にみられた石工の団体magistri commaciniは,すでに親方,職人,徒弟を擁するギルド的な組織をもち,教会建築に従事していた。マギステルを長とする石工の組織が修道院の組織を模倣したものといわれるのも,その関係によるとみられる。これらの石工たちは中世都市が成立すると定住するようになるが,それまでは仕事場を求めて各地を遍歴していた。
他方でザンクト・ガレンやエッセンなどの修道院には学校がおかれ,そこでも石工や木彫,絵画,金細工,製本,鐘の鋳造,織物などの技術が授けられていた。11世紀ごろからこうした手工業は半俗の修道士の手に移るようになる。宮廷における職人のあり方もだいたい同様であったが,宮廷においては職人は隷属民として位置づけられていた。10世紀中ごろにケルン司教ブルーノが建設した聖パンタレオン修道院において,テオフィルス・プレスビターという名の修道士が技術指導を行っていた。テオフィルスは《諸技芸教程Diversarum artium schedula》を著し,このころの優れた技術水準を伝えている。それによるとテオフィルス自身ビザンティンかイタリアで学んだと考えられる。
都市が成立するとこの二つの手工業者の伝統は,都市内に生まれた手工業者層のなかに流れこんでゆく。都市の手工業者身分は親方Meister,職人Geselle,徒弟Lehrlingの三つの階層(徒弟制度)に区分され,この三者を職人Handwerkerとして総称する。親方が構成する手工業組合(ギルド,とくに手工業者のギルドをツンフトとよぶ)は相互扶助を行う兄弟団として組織されていた反面で,親方は職人,徒弟に対して家父長的支配を行使していた。中世都市における手工業親方は市民権をもつ自由民であった点がそれ以前の修道院や宮廷の職人と異なるが,職人と徒弟は市民権がなく,親方の家に住込みで働くのが原則であった。
親方,職人,徒弟という3区分は中世社会における諸団体の基本的区分ともいうべきものであり,中世の大学も同様な構造をもっていた。そしてこの区分は今でも教授,講師,学生として,また工場においてもマイスター制度としてのこっており,この3区分からなる手工業者の全体が,そのときどきの社会とどのような関係をとり結んでいるかによって,その社会における職人のあり方が規定されているということができる。
中世都市においては原則として職人も徒弟も親方の家で起居を共にし,家族の一員であった。1276年のアウクスブルクの市法令では親方は徒弟に笞などの体罰を加えることができるが,武器を用いてはならず,またけがをさせてもならないとある。初期においては親方の徒弟に対する体罰の行き過ぎを規制する定めはみられなかったが,1346年ころの神聖ローマ皇帝ルートウィヒ4世の法書には親方が徒弟を殴り,徒弟が鼻血を出し,その場が血で汚れた場合には,親方は徒弟の縁者や裁判官に償うべきものとされている。12回以上殴ってはならないという規定もある。徒弟や職人に対する親方の権限には徐々に制限が加えられるが,近代にいたるまで体罰はのこっていった。
徒弟の数は必ずしも定められていなかったが,親方は少なくとも1人の徒弟をおいていた。徒弟の期間は1年から7年までさまざまであり,採用されるに当たっては親方はしばしば授業料Lehrgeldを要求した。農村人口が増加し都市への若年労働者の大量流入がはじまっていたことが,その背景としてあった。15~16世紀になるとドイツなどの手工業ギルドには,亜麻布織工や浴場主,刑吏などのいわゆる賤業の子弟やウェンド人などの異民族の子弟は徒弟として採用しないことを定めているところが多くなっている。徒弟になるためには両親が名誉ある身分の者であることの証明が必要とされるようになり,賤民身分出身者が手工業から排除されていったのである。徒弟期間を終え,職人になるということは一人前になることを意味していたから,騎士の刀礼をまねた盛大な祝いが行われた。そこで儀式化した問答が繰り返され,徒弟の自立,職人への昇格が宣言されたのである。後になると徒弟期間を終了した者には修了証書Lehrbriefが手渡された。
初期には親方と徒弟という二つの区分しかなかったのだが,やがて修業期間を修了し,技術の上では親方と同じ能力をもちながら,身分上は親方になれない中間の地位にある者が増加し,職人としてひとつの段階を構成するようになっていった。職人身分の誕生はギルド(ツンフト)の成立とほぼ同じころであり,貨幣経済の展開と商品需要の増大によって市場経済が拡大していた時期に当たっていた。
職人も徒弟と同じく親方の家に同居し,結婚して一家をかまえることも認められていなかった。都市人口の増大とともに徒弟や職人の数も増加していったが,親方株の数は定められており,親方になれない職人の数が増大してゆき,大きな問題となっていた。そこで一定の期間職人として勤めた者が親方作品Masterpiece,Meisterstückを提出し,審査に合格した者は組合加入金その他を支払って,やっと親方になれるという道がつけられるようになった。しかし親方株が限定されていたため,親方の子弟がまず優先され,一般の職人には親方への道は遠かった。
中世後期には,ヨーロッパにおいても先進的な工業地域が生まれていたから,地方の小さな都市で職人となった若者は,就職の機会を求めて先進的地域に旅だっていった。こうしてドイツのロマン主義文学のなかでしばしば理想化されて描かれた職人の遍歴の旅がはじまったのである。石工や大工,指物師などの職人が国内外の都市の手工業者を訪れ,2~3年の間修業するようになった。職人たちは町に到着すると職人組合が経営する職人宿を訪れ,職場を紹介してもらうのだが,職場がない場合には職人組合が3日間無料で宿泊させ食事を出し,なにがしかの路銀を与えた。このようにして職人たちは無一文でも各地を旅することができたのである。職人の遍歴の行程は北欧三国からイギリス,ドイツ,フランス,スペイン,ポルトガル,チェコスロバキア,ポーランド,バルト三国,イタリア,ギリシアにまで広がっている。ちなみに英語では職人をjourneymanという。中世後期にはじまる職人の遍歴はこうしてヨーロッパ各地の技術水準を平均化し,他の文化圏とは違ったヨーロッパ文化の一体性をつくりあげるうえで大きな役割を果たしていたといえる。職人の遍歴によって各地の民話や伝説がかなりの速度で全ヨーロッパに広まっていったことも見逃せない事実である。遍歴は20世紀初頭まで行われた。1979年ころからドイツで大工をはじめとして再び遍歴する職人の姿がみられるようになり,現代の遍歴職人は汽車に乗らず,原則としてヒッチ・ハイクで旅をするのである。
職人には職種によって定まった服装があり,服装からすぐに職業が判別できた。他国の職人が職人宿に到着したときは,自分が正規の職人である身分証明をしなければならない。後代になると修了証書が身分証明書となったが,職人も親方も文字を読めなかった中世においては,それぞれの職種に固有な動作や身ぶりと口上が定められており,その動作や口上によって自分が所属する組合員であることが確認されたのである。このような身ぶりと口上の世界は,職匠歌人(マイスタージンガー)などにみられるように傑出した独自の歌唱の分野にも広がっていった。それぞれの組合が自分たちの職種こそ神に召された最高の仕事であるという賛歌をもち,また仕事の歌をもっていた。祭りともなれば職人たちはギルド(ツンフト)のそれぞれの旗の下で全員が行列に参加し,華美を競ったのである。行列の先頭には組合の規約をおさめた櫃と旗がたち,そのあとを着飾った親方たちがつづいた。このような伝統は今日までも受けつがれている。ヨーロッパの都市における祭りの民俗は主として職人によって保たれてきたのである。
職人の作品には,中世末までは特殊な幾何学模様のサインがつけられていただけで,名前は彫られていなかった。彼らは多くの場合集団で仕事をし,伝統的な型にのっとって製作していたから,個性は伝統の型の背後にかくれていたのである。しかしながら中世末からルネサンス期にかけて職人の署名や彫像が作品の部分に登場し,そのころから職人の名前が知られるようになる。
中世においては〈婦人は公衆の前では沈黙を守る〉という原則があり,ギルド(ツンフト)においても原則として婦人は親方になれなかった。しかし,たとえば1226年のバーゼルの毛皮匠のツンフトには明らかに婦人も加わっていたことが確認されているし,1276年のアウクスブルクでは男女の別なく手工業にたずさわることができると定められている。1397年のケルンの紡糸業のツンフトにおいては,婦人の徒弟期間が4年と定められていたし,婦人の親方もいた。このほかに絹織物業にも婦人の親方がいた。いうまでもなく親方である夫が死去した場合,多くのツンフトにおいて未亡人が職人を使って親方の職にとどまることが認められていた。
しかしながら他方において婦人労働を明らかに禁止しているツンフトもあった。たとえば1378年のケルンのフェルト帽製造業においては〈親方の妻も娘も本来男性のものであるこの手工業に従事してはならない〉と定めている。1494年には同じケルンの甲冑製造業も婦人労働を全面的に禁止している。このような事例は15世紀末になると多くのギルドやツンフトにみられるようになる。これらの禁令は一方でそれまで婦人労働が認められていたことをも物語っているが,15世紀以降婦人労働が徐々に排除されていった経過を具体的に示している。
18~19世紀に〈営業の自由〉の原則が導入されてギルドは解体されていくが,同じころに婦人労働も再び認められるようになる。ギルド(ツンフト)の解体後も,親方,職人,徒弟の3区分の型と精神は今日にいたるまで生き残り,モノを造る職人の養成過程のなかで,古来の伝統を今日に伝えている。
→職人組合
執筆者:阿部 謹也
近世以降は身につけた技術で物を造ることを職業とする手工業者をいうが,さかのぼるとその語義はだいぶ異なる。鎌倉時代から室町時代までの職人は,禅宗寺院で東西両班のメンバーである役僧を〈職人〉といった例を除くと,そのほとんどが在庁官人,下級荘官をさす語であった。《沙汰未練書》に〈名主,庄官,下司,公文,田所,惣追捕使(中略)以下職人等〉とあり,1358年(正平13・延文3)の〈山科家文書〉に〈諸国本所領職人等〉とあるのもその例で,《大乗院寺社雑事記》にも越前国河口荘の荘官が職人として現れる。これが下司職,公文職等の職(しき)からできた語であることは明らかであるが,地頭,預所は職人とはいわない。一方,鋳物師(いもじ)のような手工業者,大歌所十生(としよう)のような芸能民の職能も〈所職の業能〉〈やむごとなき厳重の職〉のように〈職〉とされ,ここからこれらの人々をさす職人の語が鎌倉後期から現れ,しだいに広く用いられるようになった。1364年(正平19・貞治3)〈番匠,鍛冶,大仏師,畳差以下職人等〉(《東寺執行日記》)といわれ,漆師,鋳物師,打物師等を1447年(文安4)に〈諸職〉とよんでいるのは(〈八坂神社文書〉),そうした例で,この職人,諸職は〈芸能〉を身につけた〈道々の者〉とほぼ同義といってよい。こうして〈道々の者〉の歌合(うたあわせ)は近世初期までに〈職人歌合〉とよばれるようになり,広義の職人は手工業者から芸能民,呪術者まで含む人々を意味したが,狭義には《日葡辞書》に〈工作を職とする人〉とあるような手工業者をさす職人の語が広く用いられ,近世以後この語義が定着していく。
中世においてひとしく職人といわれた在庁官人,下級荘官と手工業者,芸能民に共通しているのは,多少とも職能と結びついた〈職〉を保持すること,平民百姓の負担する課役は免除され,しばしば荘園・公領に給免田を与えられた点,それぞれの職能に即して自立した集団をなしていることなどであり,この点から,これらの人々を〈職人〉身分ということも可能である。職人と平民百姓の分化は10世紀以降に明らかになり,11世紀から12世紀に中世の〈職人〉身分が定着する。これらの〈職人〉の中で,西国の商工民,芸能民の集団は﨟次(ろうじ)(加入年数による序列)の秩序をもつ座的な組織をなし,その職能は多くの場合世襲された。この点では非人も変わるところはないといってよい。また西国の在庁官人,下級荘官のうち御家人となった人々は国ごとにこれと類似した組織をもち,南北朝期以後の国人の組織もこれにつながる。これらの人々は職人的武士として武家に組織され支配者になったが,商工民,芸能民は公家・寺社にその職能を通して奉仕する供御人(くごにん),神人(じにん),寄人(よりうど)となり,自由通行権等の特権を保証されてその生業を営んだ。南北朝期以降,商人や各種の手工業者,芸能民の分化が進行し,これらの人々の多くは京都をはじめとする各地域の都市に集住,都市民となる。前述した語義の変化はこの動きと対応している。戦国期以後,職人は都市の町組や村落に組織されるとともに,職種別に大工・棟梁に統轄された国郡別の組織をもつようになるが,なかには鋳物師,木地屋(きじや),陰陽師(おんみようじ)のように中世以来の伝統を生かして下級の公家の権威の下に全国的組織をもつ場合もあった。江戸幕府・大名はこれらの手工業者に一定の役を課し,近世の職人身分を確定した。
執筆者:網野 善彦
小農自立が早くから進んだ大坂周辺地域では,16世紀末には寺内町など20に近い在郷町が成立し,そこでは鍛冶屋,研屋,大工,桶屋,紺屋,麴屋など多くの職種の職人層の存在が確認されている。このような専業手工業者が従来からの座職人の独占をおびやかす新興層を形成していったのである。
城下町が建設されると,領主層の軍事体制の維持と,大名領域内の農民への必需品供給という要請から,一定数の商工業者の確保が必要となる。畿内先進地では,寺社など荘園領主層との座的結合を断ち切り新興職人層も含めることによって,大量の職人を確保している。東海地方など中間地域では,半農半工的職人層を在地のまま動員できる体制をととのえ,また城下町に職人役屋敷を与えて誘致し,職人頭には役屋敷の管理を任せることで特権化し,居住職人の掌握をはかっている。関東・東北などの後進地では,上方の技術者を御用職人として召し抱え,拝領屋敷や広い拝領地を与えて特権化し,職人を集団居住させて職人町を形成し,藩作事奉行の直接支配下に属することもあってもっとも領主的統制が強かった。しかしその後軍事的緊張がなくなり,城下町諸施設が一段落すると領主的需要は減退していった。
一方において民間需要が増加することによって職人も集団居住から市中散在居住に移行していった。江戸では明暦の大火(1657)を画期とし,入込職人も大量にのぼったため散在居住が決定的になった。また幕府機構も寛永(1624-44)から元禄(1688-1704)にかけて,作事方,賄方,細工方,小普請方などの職制が整備されていき,軍事上の編成から平時の行政を推進する官僚的機構に移行し,その末端職制に御用職人も組みこまれていった。1699年(元禄12)江戸の建築関係11種の職人肝煎(きもいり)が定められたが,江戸城への御用役体制の再編であり,職人頭は本来の技術家的なものから御用役を請け負う末端吏僚的性格をもつようになる。上方では,大坂大工は特権町人山村与助の支配下にあったが,1663年(寛文3)に京都大工頭中井家の支配下に入り,96年には木挽(こびき)・大鋸(おが)職人も加えられて,中井家による御用役体制が整備されている。町方職人化の進展にともない御用役体制の再編がはかられたのである。
18世紀以降になると,出職人においては入札請負制が普及し,居職人においては仕入問屋の職人に対する前貸支配が増加し,親方層と下請職人層との階層分化が明確化していった。1740年(元文5)の江戸町触では,畳職人を畳屋,畳刺,手間取,弟子,職人,出居衆に分けて申告させており,階層の細分化が示されている。御用役負担などで内仲間は存在していたが,1721年(享保6)商人・職人の組合設立令は,享保改革における奢侈品禁止,手間賃抑制という政策遂行のためであるが,特定の職種とはいえ仲間的組織が公認されたという意義がある。株仲間は株数(同業者数)の限定を冥加金上納によって実現し,公認の表仲間化することである。これは職人階層の分化にともない,親方層の権利を固定化する意味をもっている。
また注文生産から市場生産に移行すると,広範囲の市場独占を果たすには領主権力の保護が必要となる。大坂では18世紀後半に十数種の職人株仲間が結成されるが,地方特産地の形成によって権益の侵害が始まったからである。すなわち,京都,堺,大坂など技術的先進地が独占していた高度な加工技術が地方へ流出しはじめる。これは藩財政の悪化から,殖産興業を中心とする藩政改革が各地で実施され,特産物の創出と領内自給体制が目ざされたためであり,19世紀以降は現在にまでつながる地場産業が成立することが多い。地方特産地の形成は,株仲間化,藩専売制,技術保持のための職人や弟子取締りの強化,同業者の居住地集結などの問題をもっている。職人の徒弟制もこの時期に一般的に成立したとみられる。徒弟制度には職人技術の伝習とともに,安価な労働力の長期的供給という性格がある。弟子入り年齢(15歳くらいまで),年季年数(10年が多い),弟子数(1,2名ほど),弟子取締り(住込み制など)を厳重に定めるのは,同業者の増加を抑制する性格もあったといえる。徒弟期間を修了して技術を修得しても,親方になる道は株仲間によって制限されており,結局は下請けの手間賃稼ぎの日雇職人になることが多い。19世紀以降は,このような賃金労働者化する職人層が増加していき,都市下層に滞留することによって打毀への参加者ともなり,領主層にとっては,治安対策上の観点から一般職人層の取締りに取り組むように変化していったのである。
→国役
執筆者:乾 宏巳
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
専門的な手工的技術と道具をもって顧客のために手工的生産をする手工業者。日本にこうした職人が誕生するまでには長い前史があった。原始社会では手工的技術と道具は、狩猟・漁労、さらに農耕と結び付いていて、共同体の成人層が共同体成員全体のために自給的な自由な生産をしていた。3世紀からの古代になって、技術保持者のある者は、貴族のために農閑期に手工的生産を強制される工人となった。技術はもつが道具はもたないという不自由な手工的生産者であった。
平安時代末期の12世紀には、職人誕生の契機である賃仕事が成立した。一般に需要の高い分野に農民からの職業的分化がみられ、いくつかの職種ができた。技術・道具はもっているが原料は注文主から支給され、それに加工生産して手間賃を得るのである。中世の14世紀からは、代金仕事という、原料もある程度は確保して手工生産し、代金を得ることが始まった。職人の業態には大工・左官などの出職(でしょく)と指物師・縫物屋などの居職(いじょく)があったが、賃仕事は出職、代金仕事は居職に多かった。賃金は初めは出来高払いであったが、やがて時間払いとなっていった。労働時間は1日14時間であった。職人は、都市・村落とも、領主に従属して、その経営と生活が保証された。座(ざ)という組織もその一つである。技術伝承のための徒弟制的関係も、技術に対する意識も確立されてきた。職人は絶えず農民から分化していた。17世紀からは、職人は領主の拠点の城下町そのほかの都市に、仲間(なかま)という組織の保護と統制によって経営と生活を維持することになった。しかし、仲間は業種別の親方だけの利益独占を計るための横の組織で、徒弟制も職人の縦の組織として家業構(かまい)といった親方の恣意(しい)が許され、年季も無制限となっていた。平職人の横の組織への要望は強くなってきて、18世紀からは、仲間外れの新しい親方も含めた職人全体の結合も、職種によっては生まれていた。技術に対する自負と責任感という職業意識が職人気質(かたぎ)となってきた。18世紀までは、手工業生産が唯一の工業生産として、その役割は大きかったから、職人の立場も高いものであった。しかし、そのころから問屋制家内工業、19世紀からは工場制手工業といった、新しい量産を目標とする工業生産が村落にも発展してきて、職人の手工的生産の優位性は失われ、農民の手工的生産者としての役割が重くなってきた。
19世紀後半から近代になって、さらに量産可能な機械制工場工業が発展してくるにつれて、多くの手工業生産部門は解体し、職人の手工的生産の分野は狭くなってきた。それに問屋制や請負制の展開の結果、農民はもちろん、職人もまた賃金労働者化してきて、職人による手工生産は、機械化できない限られた部門のこととなってしまった。職人は何度かの危機に直面することになった。近代では、工場労働者・職工・女工の労働運動が活発となったのに刺激されて、職人もまた労働者としての意識から組合組織をつくった業種もあったが、強いものではなく、それに一般には生産形態や徒弟制の近代化は進まなかった。
現代は機械生産の大規模化と技術革新が進み、職人の手工業生産は生産性があまり高くないということから、材料の入手難、後継者の養成難といった問題を抱えている。伝統工芸には援助の手も伸びているが、一般の職人については対策が不十分である。職人を取り巻く情況は厳しいが、そのなかに横の組織をつくり、企業者としての主体性の確保に進む者もいる。
[遠藤元男]
西洋の職人は11世紀の中世都市の成立とかかわりをもっている。むろん手仕事そのものは非常に早い時期からあり、鍛冶(かじ)、陶器作り、機(はた)織りなどの歴史は古い。都市の発展につれて、12世紀の初め、都市にいた手工業者たちは同業組合、ツンフトZunft(ドイツ語)、ギルドg(u)ildを組織した。彼らは徒弟、職人と修業を積んでいって親方になる。しかし中世初期の段階では、徒弟の修業期間の規定がなかった。修業強制の最初の記録は1304年、スイスのチューリヒの粉屋、帽子屋、皮なめし屋のツンフトにみられ、15世紀なかばになって一般化した。修業期間は4年までが多かった。親方はツンフトの承認がなければ徒弟を採用することもできない。その前に徒弟になりたい者は出自を問われた。中世にはまともな職業とまともでない職業という別があり、死刑執行人、墓掘り人、羊飼い、夜回り、皮はぎ屋、馬車ひき、日雇いその他、親の職業によって徒弟になる資格がない場合があった。4週間の試験に合格すると、親方のもとで3年修業し、ツンフトの試験を受け、職人の身分になれる。そのあと職人は2週間親方の家で休み、旅に出る。
職人の旅を初めて規定したのは、ハンブルクの皮なめしのツンフトで(1375)、15世紀のなかばに一般に広がり、16世紀になるとどこでも遍歴が義務づけられた。昔話によく仕立屋や鍛冶屋などの職人が宿に泊まる場面が出てくるが、実際は気ままに泊まれるのでなく、職種によって定宿があった。そのうえ、泊まるときの特定の挨拶(あいさつ)まであった。その文句は親方が、出発する際に、他言しないように念押しをして教えた。宿では古参の職人が質問し、新参者がビールをおごった。こういうとき、旅の職人は身分証明書を携行していた。後の19世紀(1820)のものだが、オーストリアの皮はぎ職人の手帳には、氏名、職業、生地、年齢、体格、容貌(ようぼう)、額、目、鼻、口、あご、ひげ、髪、顔色、健康、その他の特徴という欄があり、1827年の手帳では身分、宗教、1854年のものでは眉(まゆ)、歯の欄まである。雇い主は、職人の誠実さ、身持ち、勤勉さ、技量について書き、雇い主の氏名、資格、住所、職人が仕事についた日、仕事の種類、仕事を離れた日を書き込む。1820年の手帳の職人はドイツ→チェコスロバキア→ドイツ→オーストリアのチロルと旅している。彼は1人の親方の家に2、3か月から半年いて、3年後に帰郷している。こういう遍歴コースは土地と職種によってそれぞれ決まっていた。ただし技術の秘密保持のため、職人を旅に出さないツンフトもあった。生活ぶりは、15世紀のオーストリアのバイトホーフェンの仕立屋の場合、仕事は冬期が朝5時から夜10時まで、夏期は朝4時からとなっている。人との交際にも厳しい制約があり、親方試験は8種類9着の服をつくることで試された。
職人はツンフトの承認を得て親方の資格を得る。しかし、親方は自分の家と仕事場と市民権をもち、結婚していなければならなかったので、現実にはなかなか独立しにくかった。独立しても、若い親方は長年借金に苦しんだ。それで親方の息子でない者は妻の持参金をあてにしたり、親方の娘や親方の未亡人と結婚して親方になった。また、親方株が限られ、株が金で売買された。こうして親方になれない職人が年ごとに増え、職人は自分たちの組合をつくってツンフトと対立するようになった。14世紀に経済団体以上の強い政治力を発揮したツンフトも、16世紀には硬直し、親方夫妻と職人、徒弟との家族主義的関係も崩れてきた。この16世紀は、しかし女性でも仕事を覚えることができたが、17世紀末になると親方未亡人を除いて、女性は人員過剰を理由に締め出された。職人社会は外からは、18世紀にマニュファクチュアができて深刻な打撃を受け、19世紀の大規模な工業生産の出現によって追い打ちをかけられる。
[飯豊道男]
『遠藤元男著『日本職人史』(1967・雄山閣出版)』▽『伊藤栄著『西洋中世都市とギルドの研究』(1968・弘文堂新社)』▽『高木健次郎著『ドイツの職人』(中公新書)』▽『L・ブノワ著、加藤節子訳『フランス巡歴の職人たち』(白水社・文庫クセジュ)』▽『阿部謹也著『中世の窓から』(1981・朝日新聞社)』▽『阿部謹也著『中世を旅する人びと』(1978・平凡社)』
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中世中期に発生した言葉で,職能をもつ者のこと。手工業者をさすことが多い。手工業者はすでに古代からみられるが,品部(しなべ)・雑戸(ざっこ)のように官営工房に所属する隷属的なものであった。官営工房が衰え細工所が発生すると,これに所属する手工業者は平安末期に独立しはじめ職人が発生した。中世には建築業の番匠(ばんしょう)・壁塗をはじめ,金属加工業の鍛冶・鋳物師(いもじ),木材加工業の檜物師,繊維・皮革の加工にたずさわる職人などがあった。陰陽師(おんみょうじ)・仏師・絵師・傀儡師(くぐつし)・医師・博打(ばくち)なども職人とよばれ,禅僧や荘官のことも職人(しきにん)といった。職人は同業者組織である座を結成し,貴族・社寺の保護をうけることがあった。戦国大名は職人を保護・統制し,城下町への集住化もはかった。近世に入ると都市に集中した職人は同業者組織である仲間を結成し,徒弟制のもとに独特の職人社会を結成。近世後期には問屋制手工業・工場制手工業の発達によって圧迫をうけ,近代には工場制機械工業の出現で没落した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…名古屋城,姫路城,彦根城,高田城などは,外壁が白く塗られ,門の内部にも枡形を設けるなどして敵が直進できないようにし,天守閣の内部は迷路になり,籠城に耐えられるよう設計されている。 築城をはじめとする大規模な普請・作事には,多くの職人が動員された。京都の東山に建造された方広寺大仏殿の場合,番匠(棟梁,肝煎,平大工の上・下というランクがある),杣工(そまく),鍛冶,屋根ふきなどのほか,唐人の大工や奈良の大仏師など外国人や伝統的技術の保持者まで召し寄せられた。…
…
[技術と科学]
過去には技術は,もっぱら経験的知識の蓄積のうえに発達してきた。それを担ってきたのは職人であり,その習得方法は,徒弟制度のもとでの実務を通しての修練であった。職人と学者とは明確に区別されていた。…
…それがツンフト闘争とよばれる運動である。この頃ギルド内でも親方Meister,職人Geselle,徒弟Lehrlingの階層(徒弟制度)が生まれ,技術水準の維持が計られると同時に職人も兄弟団を結成し,親方に対抗する姿勢をとり始めた。この兄弟団はやがて職人組合Gesellenverbandへと発展してゆくことになる。…
…また火事があると復興に金をつかうので景気がよくなる,けんかも仲直りに飲食が付物なので飲食店がもうかる,それゆえ華にたとえたという説もある。江戸時代,江戸で働く者の中心は職人だった。職人は腕一本に名誉をかけて仕事をした。…
…職人や芸術家(工匠)の仕事場。転じて,そこで親方・師匠に従って制作に従事する人的組織。…
…産業化以前のフランスの手工業職人たちが職種ごとに集まり,技能訓練,仕事の保障,相互扶助,求道心の練磨などを目的に組織した同職種の職人組合。伝説によれば,その起源は聖書時代にまでさかのぼり,ソロモン王がエルサレムに神殿を築いた時の組織が起りだという。…
…ふつう手先を使って細かい小道具,調度などを作ること,あるいはその職人を指す語。《類聚三代格》809年(大同4)の〈内匠寮雑工長上,番上〉の中にみえる細工,《延喜式》内匠寮で五尺屛風を製作する工人中にあげられた細工は,木工,鋳工,鍛冶工,漆工等と区別された,細かい木製の調度を作る工人で,《宇津保物語》(吹上)で作物所に属し,沈(じん),蘇芳(すおう),紫檀から破子(わりご),折敷(おしき),机等を作った細工も同様の人々であった。…
…江戸時代の社会を構成した主要な身分である武士,百姓,職人,商人を指す言葉。四民ともいう。…
…ヨーロッパにおいて手工業の職人Geselleが結成した組合。中世の都市内に成立した手工業職人Handwerkerのギルド(手工業ギルドはとくにツンフトと呼ばれる)においては,親方,職人,徒弟の3区分ができあがっていたが,14世紀初めには技術面では親方と同じ能力をもちながら親方株が少なかったために身分上は親方になれない職人段階の者の数が著しくふえていた。…
… このような食料採集の旅は,猟人,山人または漁民等の手に受け継がれてゆくが,しかしその後長い間,農民以外のものは食料採集のためではなくても,生きるために旅をせねばならなかった。そのおもなものは商人・職人で彼らのほとんどが行商人であり,歩き職人であった。人口の密集した都市の少ない時代には,商人・職人はいながら,座して顧客を得ることはできず,旅をして新しい土地で新しい需要者をたえず開拓して,始めて生計を立てることができた。…
… ここでは北海道,沖縄を除き,荘園公領制という一応共通した土地制度の上に立ち,後期には村・町制に移行しはじめる社会を中世社会ととらえ,院政期から江戸初期までを視野に入れて,社会体制,社会的諸関係,諸集団などについて概説する。
〔被支配者の諸身分〕
中世社会における被支配者の身分は,大きく自由民と不自由民とに区分され,自由民はさらに平民(平民百姓)と職人とに分けることができる。不自由民は主の意志によって売買・質入れされ,譲与の対象となった下人であり,これを奴隷とみるか,農奴とみるか,議論が分かれているが,奴隷と見るほうが自然であろう。…
…日本近世における被支配諸身分の中で,百姓や諸職人とともに最も主要な身分の一つ。その基本的性格としては,(1)さまざまな商業を営む商人資本であること,(2)都市における家持(いえもち)の地縁的共同体である町(ちよう)の住民であり,正規の構成員であること,(3)国家や領主権力に対して,町人身分としての固有の役負担を負うこと,などがあげられる。…
…問屋が加工工程を包括した場合であって,みずから作業場をもつ場合と,加工工程を外部にかかえる場合とがあった。前者は資力のある職人がみずから材料を買い入れ,これを加工して販売する場合であって,角細工職,筆職,漆職等にみられた。後者は資力の乏しい職人が問屋より原料や道具を貸与されて手間賃をかせぐ場合であった。…
…手工業ギルドを中心に同職組合が形成された14世紀ころ,それと結合しつつ確立した。親方master(ドイツではマイスターと呼ばれる),職人journeyman,徒弟apprenticeという身分的な階層制度を形成する。親方は契約によって徒弟を雇い,衣食住を保証するが賃金は支払わず若干のこづかい銭を与える。…
…これは一職(いつしき)支配と呼ばれ,兵農分離の結果もたらされた近世的な社会体制を意味している。
[商人・職人の形成]
農業生産から遊離した名主百姓のなかには,武士化せずに商人・職人となる者もあった。彼らは町場に居住する場合には町人身分となり,おりから成立しつつあった新たな分業関係に基づいて遠隔地商業に従事し,軍需品や生活必需品の製作にあたった。…
…平安末・鎌倉初期に中世荘園体制が確立すると,荘園の名主(みようしゆ)百姓が平民と呼ばれ,荘田を分割・編成した名田も〈平民名(へいみんみよう)〉と称せられた例がある。これに対して,平民である名主百姓の負担する年貢・公事(くじ)等を免除される特権を有し,諸種の職能をもって本所(ほんじよ)に奉仕する〈職人〉は平民と異なる身分とされ,また在地領主や有力名主に人身的に隷属した下人・所従ら非自由民も,平民とはみなされなかった。荘園制下では百姓と呼ばれる者が一般に平民身分に相当する。…
…物事の由来,とくに家,職人の職能などの起源,由来,系譜などを記したもの。とりわけ家の来歴や系譜,親族などを記した書類は重要で,由緒,履歴,家系,系譜などさまざまな呼称と共通の場合もある。…
※「職人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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