子どもの世話、養育をすること。育児における「児」はとくに乳幼児をさすことが多いものの、「子育て」の「子」と同様に出生前の胎児や小学生・中学生などまで含め広くとらえられることもある。
育児は主として家庭において、親など保護者の手によって行われるが、その実現が不可能な場合には、里親や乳児院、児童養護施設、保育所などの児童福祉施設等において、専門家によって行われる。育児の目的は、心身ともに健康な子どもを育てることにある。
[中村強士 2024年1月18日]
育児の方法や、子どもに対する親、地域、社会の人々の意識は時代によって変化してきた。子どもが小さな家族のなかで、両親とくに母親の丁寧な養育のもとに育てられるという現代の子育てのイメージは普遍的なものではない。歴史的には大きな「家」という経営体のなかで、非労働力である祖父母や、奉公人など他者に育てさせることも多かった。
[中村強士 2024年1月18日]
江戸期(近世)の親子関係の特徴としては、しつけの対象としての「子どもの発見」があげられる。江戸期は多くの育児書が書かれた時代であり、「父親が子どもを育てた時代」であった。当時の育児書登場の背景には、子どもを育て教育することへの人々の関心の高まりとこれを求める読者層の存在があるが、育児書のおもな読み手は武士階層の父親であった。
江戸期において子育ての目的は、「家にとっての子ども」、とくに「跡継ぎとしての男子」の社会化であった。なかでももっとも意識的に子どもの教育を行っていた武士階層では、男子の養育は家長としての父親の役割であり、「家」の継承責任を子に伝える公的意味をもっていた。江戸期は、父親が社会化の担い手として「家にとっての子ども」を育てた時代といえる。
他方、当時の女性、とくに武士階層の女性に要請された育児は、夫や舅(しゅうと)の意思に従って子どもの世話にあたることであった。江戸期には女訓書が多数出版されたが、そこにはあるべき「妻」「嫁」の姿は書かれているものの、母としての役割に言及した徳目は存在しなかった。女性(母親)に期待されていたのは「家にとっての子ども」「跡継ぎとしての子ども」を産み、世話する役割であって、子どもの教育役割は父親の責務とされていたのである。
江戸期において、家名(屋号)・家産・家業の世代的伝達という家意識は庶民の間にも存在した。農民や町人の親たちは、子どもに幼少時から農作業や家業を通して経験知を伝達し、家業を継ぐために必要な知識や技術を習得させ、家産や家業の維持・存続を図っていった。また、家と村落共同体とが密接な関係をもっていた江戸期において、「家にとっての子ども」だけでなく「村にとっての子ども」を育てることも要請された。親が子どもに伝達した経験知は、家業を継ぐために必要な知識にとどまらず、隣近所や親族、寺社とのつきあい方、村のしきたりや冠婚葬祭時のふるまい方などであった。
[中村強士 2024年1月18日]
明治期になると、急速な近代化・産業化の推進という国家戦略、家制度の再編、そして学制の登場により子育てをめぐる状況は大きく変容した。その特徴を要約すれば、第一に、子どもの主たる担い手が父親から母親に移行した点、第二に、公教育制度の登場と普及に伴い、家や共同体の教育機能が後方に退いた点があげられる。
明治期の教育の近代化は、1872年(明治5)の学制公布による公教育制度の創出から始まった。公教育の登場と普及は、近代の学校教育制度の枠内に子どもを囲い込み、「国家にとっての子ども」を養成する過程であった。そして、学校教育の補完的役割を担うものとして家庭教育が「発見」され、その担い手として母親が注目され始めた。
近代国家の建設とそれを支える国民の養成が国家的課題として浮上するなかで、家庭責任を担う女性の役割が重要な意味をもち、家事・育児・内助といった女性の家庭内役割が国家の発展に寄与するものと考えられるようになった。男性が生産活動や兵役に従事することによって近代国家の国民となる一方、女性は、その男性の活動を家庭において支え、次世代を育成することによって「間接的に」国民として統合されていった。それを合理化するのが「良妻賢母」のイデオロギーであった。
明治期の育児は、「国家―学校/家庭―子ども」というタテ社会の統制秩序のもとで、母親が学校教育の下請機関化した家庭教育の担い手として育児責任を担うようになる一方、父親はもっぱら一家の稼ぎ手として生産労働に従事し、子育てへの関与を徐々に後退させていった。
[中村強士 2024年1月18日]
近代家族の特徴は、大正期における新中間層の家族においてみられるようになった。産業化と都市化が進展するなかで、大正期になると新中間層が本格的に登場した。新中間層とは、資本家でも労働者階級でもない中間の階級的位置を占める階層である。頭脳労働をし、俸給という所得形態を有し、中程度の生活水準にあることが特徴である。
新中間層の家族は、生産と消費の分離、主婦としての女性の役割の強化、子どもへの教育的配慮といった特徴をもつ。新中間層は、学校教育という制度化された社会化装置による学歴の獲得を通して、自らの社会的地位を再生産する手段を追求する必要があったため、子ども(とくに男子)の教育・進学への関心を高めていった。
このように新中間層の家族は、子どもに学力をつけることが家族の生活向上に結び付くと考え、性別役割分担を形成し、家事とともに育児は妻の領域となった。母親が育児を担うという規範は、当時の翻訳語である「母性」と結び付いた「母性愛」ということばとともに、女性自身にも受け入れられていく。またこの時期、避妊技術を用いた受胎調節、計画出産による産児制限が進み、少産少死の社会へと移行していった。その結果、子どもは「授かる」のではなく「つくる」との意識が強まっていく。
大正期の新中間層の子ども観やしつけ思想は、江戸期から明治期にかけてのそれらとはかなり異なっている。前近代における「家にとっての子ども」「村落共同体にとっての子ども」や明治期の「国力としての子ども」と家制度に裏付けられた「家にとっての子ども」観においては、跡継ぎとそれ以外の子、あるいは男女の地位の差別化が明確であり、子どもの社会化は、家父長制的イデオロギーに基づく地位統制的しつけが主流であった。これに対して、大正期の新中間層の育児には、子どもの本性や個性に沿った個人志向的な社会化の萌芽(ほうが)をみることができる。とはいえ、大正デモクラシーの風潮のなかで、近代的市民意識をもった知識層、新中間層の一部で受け入れられた子ども中心主義的教育観や個人志向的しつけ思想は、当時それ以上には広がらなかった。
他方、農村や漁村などでは子守を雇い、母親も生産労働に従事するなど、育児の方法は地域によって多様であった。病気やけがなどで子どもが命を落とす場合も多く、子どもの生存を左右する授乳や健康管理が重視された。また子どもの成長儀礼を通して、家族、親族だけでなく近隣の人々もかかわって子どもの成長を見守った。乳付(ちづ)け親や帯の親、取上げ親、名付け親、拾い親など多くの仮親(かりおや)をとる風習があったのは、共同育児の象徴といえる。
[中村強士 2024年1月18日]
第二次世界大戦後の急速な復興と経済発展を可能にしたのは、技術革新による産業構造の変化と、いわゆる「日本的経営」の形成である。戦後大企業体制下の産業化は、生産労働を担う夫と、その労働力を再生産し、家庭責任を一身に担う妻という性別役割分業家族を基盤とするものであった。
戦後家族の変容は、子どもの価値や子育ての変化とも連動する。農業中心社会においては、子どもは労働力、家の跡継ぎ、親の老後保障としての意味をもっていた。しかし、雇用者比率の増大と都市的ライフスタイルの浸透のなかで、子どもの数を制限してひとりひとりの子どもにできるだけ質の高い教育を与え、将来有利な職業につかせたいとする親の意識が生まれた。そこから「少なく産んでよりよく育てる」育児戦略が広がりをみせた。
すでに明治の終わりから大正期に、新中間層や知識人の一部にみられた「産児制限」「産児調節」(=避妊)への関心が大衆化したのはこの時期である。避妊実行率が4割を超え、中絶と避妊の出生抑制効果の割合が逆転するのは、1960年代以降のことであった。
高度成長期の大衆消費時代を背景に、都市部を中心に形成されたサラリーマン家族が耐久消費財を買いそろえ、物質的豊かさを追求する家族モデルが一般化した。すなわち、「企業戦士」となることをいとわぬ父親と、時間と労力のすべてを子どもの教育に費やす「教育する母親」の組み合わせからなる近代家族の定着である。
高度成長期以降の1970年代には、子どもの養育責任は母親の手にまかされ、父親たちはケア役割を担えない・担わないという「父親不在」の育児状況が加速していく。専業主婦の孤立した育児と稼ぎ手男性の長時間労働は、メダルの表裏の関係にある。1970年代以降の育児雑誌の登場と普及は、核家族化、都市化の進行のなかで、かつての血縁・地縁といった人的ネットワークが希薄化したことや、仕事中心で子育てにかかわる余裕のない夫にも頼れず孤独な子育てに悩み、育児の知識や情報をメディアを通して入手しようとする母親たちが増え始めたことに起因している。そして1980年代になり、核家族化のなかで共働き家庭が増え、母親が家庭にいることを最良とする従来の近代家族モデルは少しずつ変容し始めた。
[中村強士 2024年1月18日]
1985年(昭和60)の「女性差別撤廃条約」の批准を契機として、1986年に「男女雇用機会均等法」が施行され、1991年(平成3)には「育児休業法」が制定(1992年に施行)されるなど、1980年代後半から1990年代には「男女共同参画社会」への潮流が生まれた。そして母親同士や父親もともに子育てにかかわる共同育児への関心が高まりつつあった。その一方、1990年代は出生率の低下がいっそう進行し、1997年には人口動態統計史上初めて、年少人口(0~14歳未満)が高齢者人口(65歳以上)を下回るなど、少子化問題が日本の将来を左右する「社会問題」としてクローズアップされた。このような社会状況のもとで、政策課題としても「父親の育児参加」に注目が集まるようになった。少子化による「少なく大事に育てる」という方針は、質の高い育児を求めるようになり、母親は早期教育に熱心になる一方でストレスを感じて育児不安や育児ノイローゼを生み出すようにもなる。また、1999年に厚生省(現、厚生労働省)が提唱した「育児をしない男を、父親とは呼ばない」キャンペーンは国による少子化対策の一環として登場したものであったが、そこにはケア役割は男女どちらにも適応されるべきという、「ジェンダーに敏感な」メッセージもみられる。2000年代に入ると、父親・親族・近隣・友人・保育園や幼稚園の専門家などを「育児ネットワーク」ととらえる考え方も出てくる。これらの影響により、父親の役割についても性別役割分業に基づき、外で働いて家族を扶養し家庭では子どもに社会規範を教えるという「権威としての父親」論から、パートナーと協力しあって子どもの身の回りの世話をし、父子の交流を楽しむという「ケアラーとしての父親」論にしだいに移りつつある。
他方で、親が子どもの養育を行わない育児放棄(ネグレクト)や親による子どもへの虐待なども増えている。虐待の要因には、生活上のストレスや孤立した育児、「育てにくい子」の出現、世代間連鎖が指摘されており、いずれもその背景として社会で子育てをするという意識が希薄になっていることが考えられる。
[中村強士 2024年1月18日]
2000年代になって登場した「育メン」ということばは「イケメン」をもじったことばであり、育児を積極的に楽しむ「イケてる」男性という意味がある。メディアにおいては、子どもをもつ男性を対象とした雑誌が次々に発刊されたり、「育メン」を題材にしたドラマやコマーシャルが作成されたり、産業界では男性が使いやすい形状や柄を取り入れたベビーカー(乳母車)、ベビーキャリア(抱っこひも)、育児バッグなどの「育メン」グッズが流行した。このような「育メン」現象をもたらしたのは、少子高齢化社会の到来により、日本政府が少子化対策の一貫として始めた父親の育児参加の奨励、発達心理学における父親研究の発展、男性学の台頭、家族社会学を中心とした母親の育児不安研究の発展、1990年代の男性運動(メンズリブ)の醸成などがあげられる。制度・政策的には男性の育児環境が整ってきているとはいえ、現実的には父親の育児休暇取得率は低く、毎日の生活のなかで育児時間を確保するのもまだかなり困難といわざるをえない。
父親の育児に関する研究では、父親の日常的な遊びや世話行為が3歳児の情緒的および社会的発達にポジティブな影響を与えていることや、妻が夫の育児参加を高く評価して夫と協働で育児をしているという実感を得られていることが母親の育児不安軽減につながっていることなど、子どもの発達だけでなく、母親にもプラスの影響を与えていることがわかっている。さらに、父親の心身の苦痛や苦悩が父親の育児参加が頻繁であるほど低くなるなど、父親の育児参加は父親自身にも大きな影響を与えていることも明らかになっている。
[中村強士 2024年1月18日]
明治期の近代教育の補完として誕生した「家庭教育」は、その形を変えつつも、1990年代なかば以降もなお政策的・社会的関心事になっている。まず政策的には、1980年代以前の政府・行政が果たすべき役割は、あくまで「家庭教育」の条件整備にあり、その中身については個々の家庭の方針を尊重するという姿勢が保たれていた。しかし、1990年代以降の政策は、それぞれの価値観やスタイルに基づいて行われるべきものとされていた「家庭教育」の価値観やスタイルを、特定の、かつ事細かに具体的な方向へと、より積極的に誘導していくようになる。1998年の中央教育審議会答申がその典型であり、子どもの「生きる力」を伸ばす家庭のあり方として、家族間の会話を増やす、いっしょに食事をとる、子どもにも家事をさせる、幼児に親が読み聞かせをする等々の、細かく多岐にわたる提言がなされている。このような流れはとどまることなく、教育基本法にも家庭教育に関する条文を盛り込むことになる。すなわち「第10条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」という条文が追加されたのである。「家庭教育手帳」や「家庭教育ノート」の作成・配布、「早寝早起き朝ごはん」国民運動や「子どもと話そう」全国キャンペーンはこの政策動向のなかで進められたものである。
こうした政策動向を反映しつつも、それとは異なる背景要因によって、より広く社会全般において「家庭教育」への関心が高まっている。「家庭教育」のハウツーを語る雑誌記事・新聞記事や書籍などのマスメディアの顕著な増加という現象である。たとえば、ビジネス系雑誌が「家庭教育」にターゲットを絞った新系統の雑誌を、2005年(平成17)後半から2006年にかけて次々に創刊している。しかも、その内容は1980年代以前のような「受験学力」的な知的能力に特化したものではなく、意欲や関心、さらには対人能力などの内面的・人格的な諸特性に変化していることが特徴的である。
[中村強士 2024年1月18日]
育児は生まれ出てからではなく、身ごもったときからすでに始まっている。とくに5か月目ごろに行われる帯祝いは、妊娠の社会的な承認であり、胎児の生存権を社会的に認めるという重い意味があった。近世の間引が多く行われた時代でも、帯祝いを済ませた子どもは育てねばならなかった。帯祝いは妊婦にとっては妊娠の社会的な承認であり、着帯のころから妊娠の忌みの生活に入るものであった。妊娠の忌みは、妊婦の行動上の禁忌や食物上の禁忌という形で示されたが、それは胎教にもつながるものであった。
[大藤ゆき]
胎教は昔からたいせつなものと考えられてきた。とくに胎動が始まる5か月以後、帯祝いを済ませたころから胎教を厳しくした。葬式に立ち合うこと、火事を見ることなどを禁じ、また怒る、泣く、驚くことを戒め、精神的な安定を第一とした。
[大藤ゆき]
母乳が生児の成長にとって最上の栄養物であり、自然の理にもかなっていると考えられていたものの、粉乳や牛乳の発達しなかった時代には、初めての乳はよくないとし、胎毒下ろしといって、マクリ(海人草(かいにんそう)という海藻)やフキの根、カンゾウ(甘草)の汁、砂糖水などを飲ませた。そして最初の授乳は生母の乳でなく、同じころに出産をしてすでに授乳している人の乳を飲ませた。このとき男の子には女の子をもっている人、女の子には男の子をもっている人の乳を飲ませるという風習が、1935年(昭和10)ごろまで諸地方で行われていた。この乳付けをチチアワセ、アイチチなどといって、こうするとじょうぶに育つ、縁組みが早いなどといわれた。性の転換による呪力(じゅりょく)によって、子の幸いを願うという多分に呪術的なものである。授乳を縁として結ばれる人を乳付け親とか乳親(ちおや)といい、生児と仮の親子関係を結んで終生つきあった。母乳の代用品としては、重湯、スリコ(米の粉をすったもの)、甘酒の汁、カンギイ(沖縄地方で生米を母がかんで布で漉(こ)したもの)などを用いた。初誕生を迎えるまでの1年間は、乳児とよばれるように、乳と切り離すことはできない。母乳が生児にとって最良の栄養物であるという考え方は、少なくとも第二次世界大戦後の1950年(昭和25)ごろまでは揺らぐことがなかった。
[大藤ゆき]
生まれたばかりの子どもは、霊界ともいうべきところから人間界に取り上げられたばかりで、非常に不安定な状態にあるものと考えられていた。とくに生後7日間はその心配がもっとも大きく、七夜(しちや)が、まずこの世に生存するかどうかの一段階になっている。産の忌みがいちばん重いのも一七夜(ひとしちや)までであるが、そのなかでもミツメの三日産屋(うぶや)はとくにたいせつと考えられていた。それほど3日までは母子ともに危険な状態が多かったのである。三日祝いには産婆を正客として招いて、生児に湯を使わせ、初めてミツメギモノという袖(そで)のある産着を着せる。赤子にも膳(ぜん)を供えて産室で共食する。三日祝いは、生児を初めて人間界へ受け入れる最初の儀礼として、たいせつな関門と考えられていた。この人間界への加入を承認する儀礼は、1回だけでなく、成年になるまで何回となく経なければならなかった。とくに宮参りまでの生後1か月の、産屋に伴う出産の儀礼は細かく行われ、儀礼によってその成長を確かめてきた。
[大藤ゆき]
七夜は全国的にたいせつな日と考えられて、三日祝いをしない所でも、七夜の祝いは盛大に行う所が多い。この日に名付け祝いをする風習は全国的である。命名をするということは、子どもが一人前の人間として社会に参加する資格を承認することでもある。名前は普通は親がつけるが、産婆、仲人(なこうど)親、子福者(こぶくしゃ)、有力者などが名付け者として命名する例も多い。名付け親は仮親として、生児とは一生親子の関係をもつ。生児が弱くて育たないときに、神職に名付け親になってもらうのを、申し子とかトリゴなどという。
[大藤ゆき]
七夜または11日目に、イダシハジメ、ウイデ、デゾメなどといって、生児を初めて産室から出して日の目を見せる儀礼がある。菅笠(すげがさ)やおむつを生児にかぶせて、家々の神々である竈(かまど)神、井戸神、厠(かわや)神、また橋や川端などに参って、米、塩、かつお節などを供える。生児の額には、東北地方ではヤスコといって、男の子には鍋墨(なべずみ)で犬の字を、女の子には紅で丸印をつける。これは古語のアヤツコ(綾つ子)で、悪魔を払うためといわれているが、生児が神の子として承認されたしるしでもある。
[大藤ゆき]
宮参りの日取りは地方によってまちまちで、早いのは七夜から、遅いのは100日目まである。しかし、男女児ともに30日前後という例が多い。宮参りは生児を神に氏子として承認してもらう儀礼である。同時に、氏子となれば村の一員として認められるという第一段の社会的な手続でもあった。宮参りはヒアケとかヒノハレともいうように、生児の忌みはこの日でハレルものとされていた。産婦の忌みは古くは75日としたので、産婦は参加せず、産婆や仲人の女親、姑(しゅうとめ)、実家の母、親戚(しんせき)などが抱いて参る。生児には、実家から届けた産着のノシメ(男)やモヨウ(女)のカケギモノをかける。宮城、福島、新潟、栃木、茨城、千葉県などではイナギ、神奈川、山梨県ではオボギノという晒(さらし)の袖なしを、いまでもハレギのノシメなどの上に着せる。産の忌みの観念の強い所では、社前まで行かず、鳥居参りといって鳥居の所で参って帰る。宮参りの帰りには、親戚に寄ってシラガ(白紙に包んだオヒネリ)を産着の紐(ひも)に結んでもらったり、臼(うす)に入れてもらうなど子の縁起を祝う。家では餅(もち)や赤飯で祝い、共食をする。
[大藤ゆき]
食い初(ぞ)めの祝いは、100日目から110日目にする所が多いが、6か月目に行う所もある。100日目には生児の首もすわってしっかりしてくる。首がすわるということは、成長の大きな節目なので、「百日のクビスエ」とか「百日の一粒食い」などという。乳以外の大人と同じ物を食べさせることによって、一段と人間界への仲間入りを確認する儀礼でもあった。母の里方から生児の茶碗(ちゃわん)、箸(はし)、膳などをそろえて贈って生児の前に供えるので、ハシソロエ、ハシゾメ、百日のママクイなどともいう。膳には小豆飯(あずきめし)に尾頭付きの魚をつけ、小皿には川原から拾ってきた小石をのせ、「石のおさい」といってなめさせるのは、歯がじょうぶになるためというが、小石は産神の依代(よりしろ)の意と思われる。自分を養う自分の箸、茶碗を与えるというのは、日本独特の習俗であり、食生活のしつけの始まりともいえる。
[大藤ゆき]
第二次世界大戦前は正月で年をとったので、生児が初めて迎える初正月には特別の祝いの意味があった。男児には破魔弓(はまゆみ)、女児には羽子板を贈る風習が現在も行われている例もある。節供は男女ともに「初子の初節供」といって、初生児だけが盛大に祝われている。里方や親戚、仮親などから人形や幟(のぼり)を贈る。返礼として菱餅(ひしもち)やちまき、柏餅(かしわもち)などを返す。生児の世間への仲間入りの機会でもあった。
[大藤ゆき]
満1年というのは立ち歩きができるという、人間としての飛躍的な成長のときなので、ムカイドキなどといって、餅を搗(つ)き、親類知己を招いて祝う。満1年まで無事に育てば、ひとまず成長の見通しもたつので、初誕生は全国的に祝われている。誕生前に歩き出す子には、一升餅を背負わせてわざと倒す習俗が各地にある。このように生後1年間は、特別の心遣いのもとに儀礼を重ねて、その成長を確かめてきた。子どもの成長に伴う儀礼は、それ自身教育的機能をもっているが、同時に一つの育児法でもあった。
[大藤ゆき]
子どもの祝いは地方によってはかならずしも七五三とは限らず、三つと七つ、あるいは七つだけを祝う例が多い。しかし3歳、5歳、7歳は子どもの成長にとってたいせつな節目である。とくに7歳は男女ともに幼年期の終わりとして重要な年齢とされている。氏神に参って改めて氏子入りをする習慣があった。
[大藤ゆき]
日本には生みの親や養い親のほかに、多くの仮親をもつ風習がある。出生後一人前になるまでに、取上げ親、乳付け親、名付け親、子が育たぬときに拾ってもらう拾い親などがある。
[大藤ゆき]
生後3日目または七夜に、生児をエジコ、ツグラ、イズミという藁(わら)製の籠(かご)に入れる風習が各地にある。はい出すようになると子守をつける。
[大藤ゆき]
夜泣き、疳(かん)の虫、麻疹(ましん)(はしか)、疱瘡(ほうそう)など多くの病気には、各地に種々の呪法(じゅほう)や俗信がある。
また四国から瀬戸内海周辺にかけて、子どもを養育することを「児(こ)ヤライ」という。ヤライは追い立てることで、子どもの臀(しり)を後ろから追いたたきながら一人前に育て上げることを意味している。
[大藤ゆき]
誕生直後の馬の赤ん坊がおそるおそる歩き出すシーンは感動的だが、人間の赤ん坊は歩くことはおろか、栄養摂取も排泄(はいせつ)処理もすべて養育者に全面的に頼らねば、その生存の維持さえ危うい。人間の嬰児(えいじ)の特徴はその未熟性にあり、そのために育児のもつ比重は非常に大きい。これまで世界各地で発見されてきた「野生児」、つまり人間的養育環境が得られずに育った子どもに関する報告は、成長の各段階において適当な養育を経ることが、人間としての心身両面での成長にとっていかに大切かを示している。また、世界の諸民族における育児をみると、人類として共通している部分と、それぞれの文化に特徴的な部分のあることがわかる。
[横山廣子]
母親の最初の授乳に際して伝統的に特別の処置がとられていたことが知られている。北米先住民のスー(ダコタ)の人々では、初乳は毒だとされ、新生児が最初に飲まされるのは野草などの汁であった。タイ人のかつての慣習は、生後3日間は母乳を与えず、蜂蜜(はちみつ)などを食べさせるというもので、母親が初めて授乳するときには、年配の婦人にまず乳を吸ってもらう儀式が行われた。ひとたび授乳が始まると、どの社会でも伝統的には授乳時間など気にせずに子どもが欲しがるときに飲ませるのが一般的であった。そして、離乳についても特定の時期を意識することなく、次子の誕生まで授乳が続けられる場合が多かった。また、早くから乳以外の食物が並行して与えられることもあり、そのような社会では離乳は比較的問題なく果たされた。また、乳首に異物を塗るなどのくふうもよくみられた。人工乳の導入に伴って計画的授乳が普及したが、最近では古来からの融通性のある母乳による授乳が、母子の心身衛生上、優れていると見直されている。
[横山廣子]
北インドのラージプートの人々は、赤ん坊におしめをせず、布にくるんで寝かせておいた。シーツがおしめがわりになっていた。とくに厳しい排便のしつけはなく、子どもは成長するにつれて排泄を親に教えるようになった。それに対し、マダガスカルのタナラの人々は、生後半年ほどの子どものそそうに対してさえ厳罰を与え、早くしつけようとした。一般に緩やかなしつけにおいては、子どもが他人から笑われないようにふるまおうとするのをしつけの原動力としている。
[横山廣子]
伝統的社会では、乳児にとって第一の養育者が母親であることは、例外的な場合を除いてほとんどの社会に共通していた。しかし、日本でも江戸時代に武家を中心にみられたが、実母にかわって乳母(うば)が養育することが、社会の一部の上層においてみられる場合があった。現代社会では、仕事をもつ母親のために集団保育施設が発達し、乳児を含めた保育が行われている。伝統的社会では、離乳後も母親が主たる育児担当者であることが一般に多いが、サモアでは6、7歳の同じ家に住む少女たちが中心となってその役目を引き受けた。またサモアでは大家族が普通で、家に大人の女性が何人もいるため、母子の密着した関係は存在しなかった。母親が戸外に出て働かねばならないときの乳幼児の世話の問題には、世界各地で伝統的にいろいろな解決法がとられてきた。手のあいている者に子守を頼む場合、多くの社会が年配者に限らず、乳幼児の兄や姉にあたる子どもたちにそれを任せてきた。子どもを動けないように籠(かご)や板に縛り付けておくこともあった。あるいは母親が子どもを背負うなど、自分の体につけて働くこともあった。
[横山廣子]
どのような育児が行われるかは、その社会の人々が子どもをどう考えているかによって左右される。また育児様式は各文化に適合した人格を形成するように仕組まれているともいえる。M・ミードのニューギニアにおける研究から対照的な2事例が取り出せる。ムンドゥグモルの人々は子どもの誕生を喜ばなかった。彼らの社会では、息子は母の、娘は父の集団に属し、それぞれから財産を相続した。一夫多妻婚が理想で、結婚は、男性間でその近親の女性を交換するのが原則であった。したがって、女性を自分の結婚の交換要員にすることをめぐって、父と息子はライバルとなった。またすべての男たちが敵対しあう社会であった。夫は男児を嫌い、妻は女児を嫌い、嬰児(えいじ)殺しも珍しくなかったという。育児態度はそっけなく、優しさがなかった。子どもは夫婦間に亀裂をつくり、また夫婦の対立に利用された。このように育てられることで、子どもは荒々しさや攻撃性を身につけた。一方、アラペシュの人々は父系制で、各部落は一つの父系親族で構成され、親族間の協力によって農耕などの生計活動が営まれていた。子どもはだいじに育てられ、夫も育児に協力した。泣けば乳がすぐ与えられ、つねにだれかがそばで見守っていた。乱暴なふるまいは禁じられていた。こうして彼らの社会にあった穏和で協調性のある人格が形づくられていくとミードは分析した。しかし、育児様式と性格的特徴とを結び付けることには慎重な態度をとるべきだとする議論もある。
[横山廣子]
子どもの成長に対して各社会は節目をつくり、それまでの成長をみんなで確認し、喜び合い、以後の順調な生育を祈るための通過儀礼を行う。中国の漢民族の伝統的慣習では、まず3日目に「三朝」があり、新生児を洗ったのち、家の神仏や祖先に拝礼した。1か月目の「満月」では子どもの剃髪(ていはつ)があり、やはり拝礼が行われた。1歳の誕生日は「周歳」とよばれ、拝礼後、いくつかの品物を並べて子どもにとらせ、それで将来を占った。いずれの祝いにも親族・友人が贈り物持参で集まり、祝宴が催された。
移動生活をする南米の採集狩猟民シリオノの人々は、生後3日間は子どもが危険な状態にあり、両親との親密なつながりが維持されると考え、父母と新生児に特別の措置を施した。たとえば、親はその間、食物のタブーを守り、最初の日には足を傷つけて血を流さねばならなかった。子どもを病気にするかもしれない古い血を出すためだといわれた。2日間のさまざまな行為ののち、3日目には終了の儀式が行われた。家族が列をなして森に入り、そこで薪(たきぎ)を集めた。先頭の父親は子どもを守るために弓と矢を携え、続く母親は子どもを肩から吊(つ)り下げ、水の入ったひょうたんをもった。ほかの家族がその後に続いた。森から帰ると、とってきた薪に火をつけ、ひょうたんの水で子どもに水浴させ、そこで初めて人々は日常生活に復帰した。
[横山廣子]
病気や事故で命を落としやすい子どもを守るため、近代医療の発達前から伝統的にいろいろな方法がとられてきた。動物名や奇妙な意味の名を幼名とする慣習は世界に広く分布したが、これは邪悪なものの注目や嫉妬(しっと)を避けるためであった。また護符となるものを身につけさせることもよくみられる。子どもをとくに守護する神々の信仰も知られている。
[横山廣子]
『有賀美和子・篠目清美・東京女子大学女性学研究所編『親子関係のゆくえ』(2004・勁草書房)』▽『本田由紀著『「家庭教育」の隘路 子育てに強迫される母親たち』(2008・勁草書房)』▽『沢山美果子著『近代家族と子育て』(2014・吉川弘文館)』▽『平木典子・柏木惠子編著『日本の親子 不安・怒りからあらたな関係の創造へ』(2015・金子書房)』▽『E・H・エリクソン著、仁科弥生訳『幼児期と社会Ⅰ』(1977・みすず書房)』▽『原ひろ子著『子どもの文化人類学』(1979・晶文社)』▽『ヒルドレッド・ギアツ著、戸谷修・大鐘武訳『ジャワの家族』(1980・みすず書房)』▽『大藤ゆき著『子どもの民俗学――一人前に育てる』(1982・草土文化)』▽『柳田国男・橋浦泰雄著『産育習俗語彙』(1984・国書刊行会)』▽『大藤ゆき著『児やらい』(1985・岩崎美術社)』▽『母子愛育会編『日本産育習俗資料集成』(2008・日本図書センター)』▽『吉田禎吾著『未開民族を探る――失われゆく世界』(社会思想社・現代教養文庫)』
生まれてきた子どもを,心身ともに社会生活が可能な年齢になるまでの間,養育する過程を育児という。狭義の育児は,出生後学齢までの乳幼児について語られることが多いが,最近では,妊娠中の母性の心身の健康状態が胎児に及ぼす影響が大きいことから,妊娠中の母体の健康維持や,健全な精神生活も育児の一部分と考えられるようになり,さらに,優生学的な見地から,妊娠前の両親の健康も考慮条件に含まれるようになった。また,社会的に一人立ちする年齢が遅くなるにつれて,育児という視点でとらえる必要のある小児の年齢を,中学,高校年齢まで引き上げて考えることも要求されるようになってきた。
人は,受胎後,胎内で約280日を過ごす。この間に,受精卵は細胞分裂を繰り返し,細胞分裂がある程度進むとそれに細胞の機能分化が加わって,身体を構成する諸器官が形成され,出生に備えてその機能も発達を続ける。視・聴・嗅(きゆろ)・味・触・圧覚などの感覚,哺乳,排出の能力は,胎内生活の末期にはほとんどその機能が完成する。しかし,中枢神経と末梢神経をつなぐ経路は機能的に未完成のまま出生する。多胎,妊娠中毒症,母体の疾患などが原因で40週以前に出生すると,器官の成長,機能の発達が未熟なため,胎外生活についてさまざまな不都合を生じる。とくに,呼吸機能,哺乳機能,免疫機能の未熟を伴いやすい。
出生後は,体各部の各器官のサイズが増し,構造が完成するにつれて,生活に必要なさまざまな機能が果たされるようになる。身長は,在胎期間と生後2年の間に著しく伸び,その後10歳前後まで伸び方が鈍くなり,思春期に再び急成長して,成人に達すると伸びが止まる。体重は身長の伸びに伴って増加するが,体質,疾病,栄養不足,生活環境の悪さなどの原因でやせ(身長に比し体重が少ない状態)たり,体質,運動不足,栄養過剰などによって肥満となる。
脳の神経細胞数は,在胎期間中に増加し,出生時に約140億個に達するが,それ以後生涯を通じて数は増えない。しかし,感覚の刺激や運動による刺激によって,機能を支配する神経細胞と,機能を遂行する末梢器官をつなぐ神経経路が完成し,末梢からの情報伝達,中枢からの命令伝達が可能になる。視覚による色・形を弁別する能力,聴覚による言葉や音を認識する能力,首のすわり,寝返り,座る,はう,立つ,歩く,走る,投げるなどの運動能力は,すべて神経機能の成熟に並行して発達する。神経系の成長発達は,他の器官の発達のパターンと違って,乳幼児期に急速であり,脳や,それを収容する頭蓋は,7歳ころには成人の8割の大きさに達し,14歳になると父親の帽子がかぶれるようになる。
小児期には,生活環境中に存在するさまざまな異物や病原体の侵入を受けて,感染症やアレルギー疾患にかかりやすい。そのため,免疫機能に関係の深いリンパ組織は,小児期に発達のピークに達し,成人期には退化する。一方,性腺,生殖器は,思春期になって初めて活発に成長し,機能するようになる。
いずれの器官系においても,まずその器官が成長し,機能を果たす準備ができた段階で,その機能をひきだすような刺激が加えられて初めて正常な機能が発揮されるようになるのであって,器官の成長が未熟な段階で刺激が加えられても機能をひきだすことはできず,また,器官が成熟しても適切な刺激が加えられなければ,その器官は正常な機能を果たすようにはならない。たとえば,下肢の筋肉の神経支配が完成していない6ヵ月の乳児には二足歩行はできない。一方,十分に成熟していても,オオカミの群れの中で育ったヒトの子は四足歩行をしていたという記録がある。見たことのないものは何であるか理解できないし,聞いたことのない外国語は雑音にすぎない。
以上のような成長・発達の原則を基礎に育児の意味を考えると次のようになろう。身体各部や諸器官が正常に成長するためには,サイズの増大,機能の発達に必要なエネルギーや材料物質を供給するための,質・量ともに豊かな栄養が必要である。また,成長を促すためには適度なストレスが必要であるが,過度のストレスはかえって成長を妨げる。適度のストレスを与え,過度のストレスから保護するよい環境が小児の成長には不可欠である。自力で食をとり,身の回りの始末をし,排出の処理ができるようになるまでは,周囲の年長者たちが手を貸さねばならない。成長を妨げるような疾病は早く発見し,早く治療し,予防できる疾病は極力予防せねばならない。こうして,正常な成長を促しながら,成熟の度合に合わせてその機能をひきだすように外部から働きかけることが必要である。さらに,人は社会生活を円満に行い,その能力に従って,社会になんらかの貢献をせねばならない。そのためには,円満な社会生活をおくるのに必要な規律,行動を教え(しつけ),社会に貢献するために必要な知識・技能を修得する機会(教育)を与えなければならない。育児とは,以上に述べたような条件を,成長・発達の過程にある小児に対して充足してやることにほかならない。
→新生児 →成長
かつて,育児は主として経験に基づいて行われ,知識の及ばぬところは神仏への祈りやまじないに頼ってきたが,各種の学問の進歩によって徐々に理論的裏づけをもつようになった。
小児医学は,古くから育児と関連が深い。先に述べたように,身体のサイズ,器官の成長がどのような経路をたどり,その正常と異常の境界がどのあたりにあるかを知ることは,ある子どもの育児の成否を評価することにも役立つ。歩行,言語,識字,計算など心身の機能の発達状態の評価についても,正常な発達パターンを知ることがまず必要である(生理学)。
母乳栄養に始まり,その補助手段である人工乳汁栄養,乳汁から固形食への移行(離乳),消化管の機能が成熟するまでの間の食事(幼児食)など,小児に必要な栄養の種類,質・量についての知識(栄養学)も育児に欠くことができない。かつて小児の生命を脅かした肺炎,下痢・腸炎のような感染症,あるいはその他さまざまな疾患を予防し治療するための学問,すなわち病理学,診断学,治療学も育児を支える学問である。小児の精神機能については,精神医学や心理学が理論的根拠を提供する。以上のような医学の各部門のうち,とくに小児を対象とした学問分野を包括したものが小児科学,小児医学pediatricsである。
小児医学以外の学問分野で育児にかかわるものとしては,ほかに社会学がある。社会学は,小児の置かれている社会状態,社会環境,小児が成人して参加していく社会のあり方などを考える学問である。文化人類学は,世界各地で行われている,さまざまな文化を背景にした育児観,育児技術についての情報を提供し,育児のあり方を考えるうえでの視点を広げることに役立つ。教育学は,小児を社会化し,知識・技能を修得させるのに必要な理論,方法論を提供する。このほかにも,家政学の一部門として育児学が研究されている。民俗学は,かつて行われていた育児について,習慣,祈り,まじない,ことわざなどを収集・記録している。動物学,比較行動学ethologyは,ヒト以外の哺乳類とヒトの育児の比較という立場から,育児を考える資料を提供している。
このように,現代の育児は,さまざまな人文科学,自然科学を背景にして成り立っているし,また,その時代に即応した育児理論を考えるにあたっては,いろいろな学問分野の相互の協力が必要である。育児学pedologyという学問分野をしいて定義づけるとすれば,さまざまな学問成果から,とくに育児に必要な部分,育児に関与する部分を抽出して統合し,体系づけた学問ということになるのであろう。
学問的な知識は,そのままの形で育児の実践にもちこむことは難しい。学問を咀嚼(そしやく)して理解しやすい形にし,それを両親,保育者,その他育児にかかわる人たちに伝達することが必要で,効果的な育児情報の伝達手段を考えることも育児学の役割の一部分である。情報伝達の手段としては,書籍,雑誌,新聞,ラジオ,テレビ,電話などのマス・コミュニケーション・メディアも広く利用されている。しかし,このような手段はえてして一方通行の情報伝達に終わりやすいので,育児知識を豊富にもち訓練と経験を積んだ医師,保健婦,コンサルタントや,育児経験のある婦人などと,新しく育児を始める人たちとの二方向的な相談システムが望ましい。
育児に際して充足すべき条件について概説する。
育児の基本条件の第一は,養育される小児と養育するものの間の愛情の交流である。物理的な育児環境がいかに完全であっても,愛情を欠く環境では小児は健全に育たない。このことは,20世紀初めのホスピタリズムの研究,J.フロイトの研究,1950年代のボウルビーJ.Bowlbyの母子関係理論,70年代以降のクラウスM.H.Klaus,ケネルJ.H.Kennelらの母子相互作用に関する研究が明らかにしている。ボウルビーは,母と子が愛情のきずなで結ばれていることが,その子どもの自己への信頼,ひいては他者への信頼を育てることになり,円満な社会生活を営むことのできる人格形成につながる,という。子が母に対して抱く愛情のきずなを,ボウルビーは愛着(アタッチメントattachment)と呼んでいる。クラウス,ケネルらは,愛着の形成には,出生直後における母子の皮膚接触や母乳哺育が大切としている。愛着の形成が,出生直後のみならずそれ以後の育児の鍵を握るということから,最近では,出生直後の母子の肌のふれあい,早期授乳,産褥(さんじよく)期の母子同室などが産院にとり入れられるようになってきている。
乳児は,生後約半年間は乳汁で育てられる。母乳は,栄養素の構成からいっても乳児の栄養として最適であるのみならず,その中に含まれる免疫物質,抗菌物質,白血球などによって,細菌やウイルスの腸管感染を防ぎ,また食物アレルギーの発現を抑える。さらに授乳の際の皮膚接触,見つめあい,言葉や笑顔の交換などによって,母子の愛情のきずなをより強めることができるなどの利点がある。母乳が不足したり,母親の就業によって母乳が与えられない場合には,不足分を補うか(混合栄養),あるいは完全に母乳に代えて人工乳が用いられる(人工栄養)。人工乳の材料としては,かつては穀粉や牛乳などが用いられたが,現在では,牛乳を主材料とし,それを加工した調製粉乳が用いられる。生後5ヵ月以後になると,乳汁のみでは十分な栄養摂取ができなくなるので,乳汁に加えて半固形食,固形食が与えられるようになり,徐々に乳汁依存から脱して雑食に移行する。この過程が〈離乳weaning〉であり,この時期の食物が〈離乳食〉である。離乳は,最近では生後1年ころ完了するのがよいとされている。母乳を与えることを中止するのを〈断乳〉と呼んでいる。断乳の時期は,母乳以外の栄養摂取が可能になる8ヵ月ころから1年までがよいと主張する人が多いが,最近,母子の心理的,精神的な利点から,授乳が発育を妨げず,母子にとって楽しい行為である限り断乳を急ぐ必要はないという主張をする人も増えてきている。自分で食卓上の食物を口に運ぶことができるようになるまでは,離乳が完了した後も,小児の食事には母親や養育者の助けが必要である。また,この時期は食事の摂取量にむらがあり食事のしつけも未完成なので,少食,むら食べ,遊び食べなどの問題が生じやすい。
小児の栄養に関して最も重要なことは,栄養学的にみて質・量ともに適当な食品を,摂食能力,消化能力に合わせて食べやすい形で与えることと,楽しく食事ができるような雰囲気をつくり,子の意思に反して食事量やしつけを無理強いしないこと,の2点である。
→母乳
体温の維持,皮膚の清潔(入浴,洗顔など),排出物の処理など身の回りのことは,自分でできるようになるまでは食事同様必ず他者の手を借りなければ子どもには不可能である。室温の調節,衣服の調節に関しては,乳幼児は,運動量が大きく体内での熱産生もおとなより多いので体温が上がりやすい反面,容積当りの体表面積が大きいので放熱量も多く体温が下がりやすい。それゆえ,おとなよりも環境温度への適応の幅が狭いと考え,おとなにとって〈ちょうどよい〉程度の保温を目安にするのがよい。乳幼児の皮膚は,構造も厚さもおとなより未発達で脆弱(ぜいじやく)なので,手荒い扱いは避けるべきである。刺激性の強いセッケンの使用や,強い乾布摩擦はよくない。排出物の処理は,排尿便をあらかじめ告げることができるようになるまでは,おむつ(おしめ)によることがほとんどである。おむつ,おむつカバーは吸湿性,通気性のよいものを選び,また,先天性股関節脱臼の生後成立を避けるために,下肢の自然な動きを妨げないような当て方をする。おむつかぶれを避け,また,なるべく順調に排尿便の告知ができておむつがとれるようにするための無理のない働きかけとして,汚れたおむつはなるべく早く取り替え,清潔な皮膚の感覚の心地よさを覚えさせる。
さらに,積極的に健康増進を図るために,日光浴,外気浴,外遊びなどを行うことも大切である。
愛情の必要性についてはすでに述べたが,養護も単に機械的に行うのではなく,授乳の際,身の回りの世話の際,笑いかけ,話しかけ,子どもからの笑い,語りかけにも積極的に答えることが大切で,こうすることによって母と子のきずなはより密になり,また,数多く言葉を耳にすることによって言語の修得の基礎がつくられるのである。
育児用品・玩具の選択,身の回りの世話や外出などに際して,危険の少ないものを選び,危険からの保護に注意して,事故を予防することも大切である。
感染症に関しては,ワクチンによって感染を防ぐことのできる病気が多くなった。はしか,百日咳,ジフテリア,破傷風,ポリオ,風疹,おたふく風邪,インフルエンザ,日本脳炎のワクチン,結核に対するBCGなどが広く小児に接種されている。ワクチンによる予防の難しい感染症も,抗生物質,輸液法などの治療手段,治療技術の進歩によって,生命を脅かすほどの重症になることはきわめて少なくなった。先天性代謝異常については,出生直後のガスリー法によるスクリーニング検査によって早期発見し対策を講じることができるようになり,小児癌のうち神経芽細胞腫は,尿中VMAの検出によって,これまた早期発見,早期治療が可能になった。先天的な外表あるいは内臓奇形は,乳幼児健康診査が新生児期,乳幼児期にきめ細かく行われるようになって早期に発見されるようになった。各種スクリーニング試験や予防接種は勧められるままに必ず実施し,乳幼児健診,保健指導の機会を逃さないことが親とし,養育者としての義務であろうし,また育児に失敗しないための大切な条件といえよう。
しつけは,日常生活に必要な事柄を習慣づけること,礼儀作法を身につけさせること,社会生活に必要な規律を身につけさせることであるが,その内容は,時代により,文化により,その社会のもつ児童観により,家庭によって変化するものである。しかし,文化,時代,児童観,そのときの社会道徳を超えて必ず身につけさせるべき倫理は,親として必ず子どもの身につけさせるべきであろう。他者への思いやり,生命の尊重,社会に対する義務感などがそれにあたる。
→しつけ
子どもの健康を維持し,成長を促進することを目的として,法的,制度的にさまざまな施策が行われている。おもなものに次のようなものがある。
乳幼児が心身ともに健全に育てられるよう,身体計測,医学的診察,検査などにより健康状態を評価し,病気を早期発見して処置を講じ,育児上の問題について助言することを目的として行われる。3ヵ月,1歳6ヵ月,3歳の時期には,行政レベルで(市町村,保健所などの手で)集団健診が行われ,地域によっては,公費負担による病医院での個人健診も行われている。このほか,私的に病産院,デパートなどで健診や育児相談の場が提供されている。
一般に〈母子手帳〉ともいわれ,母子保健法に基づいて,妊娠を届け出た婦人に交付され,妊娠中,出産前後の母体,新生児期から学齢までの乳幼児の健康状態の記録にあてられる小冊子である。身体計測や健康診査の記録のほか,発達のチェックリスト,歯科健診記録,予防接種記録などのページがある。
→母子手帳
就労する母親が多くなったので,育児に携わる間の休暇がいろいろな形で与えられるようになった。労働基準法では,産後6週間の育児休暇が保障されている。勤労婦人福祉法(1972)では,事業主は,育児のための一定期間の休暇を申し出られたときは便宜を図るように要望されている。さらに育児休業法(正称は〈義務教育諸学校等の女子教育職員及び医療施設,社会福祉施設等の看護婦,保母等の育児休業に関する法律〉,1975制定,77施行)によって,教員,保母などの職種の公務員である勤労婦人は,1年間の休暇をとれることが定められている。この間,給与は支給されないが身分は保障される。
→妊娠
執筆者:澤田 啓司
育児ということは当然のことながら,ふつう両親とりわけ母親の行うことであるから,その上手下手というような技術的側面から扱われがちである。しかし問題はそう簡単なものではない。子どもの人格発達に関して後に問題が生じた場合,それを特定の親の育児法に結びつけて考えることがこれまで多かった。たとえば,過保護,放任などという親の育児法・態度がどのように子どもの行動特徴とかかわっているかというような見方がこれである。こうした立場から数多くの研究がなされてきたが,そこから出された結論はごくおおまかで一般的なものであり,個々の親子の例に対して適当な情報を提供するものではなかった。それどころか,こうしたいわば蓋然的な結論をそのまま信じることが,育児にあたる母親たちに悪い影響を及ぼすことも少なくなかった。
ところで,近年における心理学の研究においては,上に述べたような欠点を克服し,育児のあり方と子どもの成長・発達との因果関連を明らかにすることに精力が注がれている。そこにおいては,子どもの育て方を規定する要因についての検討がいろいろの角度から行われている。以下にそれらについて記すことにする。
まず親とりわけ母親自身にかかわる要因として,母親のパーソナリティの特徴,成育歴,現在の生活条件,育児知識などをあげることができよう。これらが相互に関連しあっていることは当然のことである。つまり母親が幼少期により安定した家庭環境の中で成育したのであれば,安定したパーソナリティが形成され,結婚してからの生活状況も好ましいものであることが多く,適切な育児知識を身につけて子どもに上手に接することができるようになる可能性が高いであろう。育児とは小手先の技術ではないのであり,育児知識をたくさん身につけたからよいというものでもない。そこで育児において問題の生じやすい場合について考えるならば,この点がより明らかになるであろう。まず母親の置かれている生活状況が,彼女が安定した育児をすることを妨げるようなものである場合が考えられる。養育者である母親に対する周囲からの心理的支持が非常に大切であるが,今日の核家族においては,夫から与えられるものに限られている場合が多い。したがって夫婦間に安定した愛情と信頼の関係が確立していないならば,育児は困難なものとなるであろう。
つぎに育児知識についてみると,かつては育児の先輩である年寄りなどから教えられることも多かったし,それはそれぞれの家にとって適切なものであった。ところが今日では,育児書などからの一般的知識に依存する度合が非常に高く,しかもそのような知識を自分の子どもの特徴に照らして用いるのでなく,そのままを当てはめようとすることが多い。これでは子どもにとって役に立たぬばかりか,かえって発達を妨げることになりかねない。また母親の成育歴とも関係があるが,母親がひとりっ子あるいはふたりきょうだいで育つ場合が多いので,昔のように子どものころ自分の母親が子どもを育てる姿に接することもあまりなく,また弟妹の世話をするような経験にも乏しい。したがって,やがて自分が子どもを産んで育てるときに,どのように子どもとかかわったらよいのかとまどうようなことにもなる。
以上,育児の規定因として母親側の要因について述べてきたが,これとともに近年の発達心理学研究では,子ども側の要因を重視するようになってきた。問題を乳児に限定して考えてみても,生まれた子どもが気質的に難しい子--よく泣いたり,むずかったり,寝つきが悪かったりする子--である場合と,扱いやすい子である場合とでは,母親に及ぼす効果はまったく異なると考えられる。つまり前者では母親は育児を労の多いやりがいのないものと感じ,後者では楽しくやりがいのあるものと感じる可能性が大きい。そこで,やがて双方の母親の子どもへのかかわり方は大きく変わったものとなり,そのことがまた子どもに及ぼす効果も異なってくるであろう。このような母と子の間の二方向的な相互作用が時間の流れのなかで展開していくものとしてとらえるのが今日の研究の特色である。もし,ごく初期に子どもに問題があるような場合には,できるだけ早くこうした母子間の悪循環をたち切る必要がある。おそくなればそれだけ治療的かかわりが困難になるからである。この意味で,乳児期や幼児期の初期における専門家による母親への援助体制を充実することが急務であるといえよう。
育児といえば,ふつう親が子どもに意図的,直接的に働きかけることと関係していると考えられている。しかし,親であればだれでも体験するように,子どもは,少し大きくなれば親にいわれることだけでなく,親のすることに影響されるようになる。このようにして親のふりを見て親の望まぬことを学習してしまうことも少なくない。こうしたメカニズムによって子どもは多くのことを学び身につけていくのであり,もしそうでなかったら,親はすべてのことを子どもに直接教えこまなくてはならず,それはとうてい不可能であろう。また直接的影響と間接的影響は別々に働いているものではなく,共働的に子どもに作用していると考えるべきであろう。たとえば親が子どもに直接に教示することを,親がみずから日常行動において示すということが最も効果的と考えられる。また,直接に子どもに教示することと無関係な親のふるまいが,その直接教示の効果を強めもし弱めもするということも認める必要がある。たとえば,母親の有能さをふだんから認識している子どもとそうでない子どもでは,同じような母親からの働きかけにも異なった反応を示すであろう。もし父親が母親を軽べつし信頼していないならば,そのことを観察した子どもは母を有能な人とは認識しないであろうから,母のいうことをきかない可能性が大きい。またこれと反対に,母親が子どもに対して父親のいないときに父親のことを好意的に語るならば,子どもと父親との直接的交渉はあまり多くなくても,子どもは父親に対して信頼感や愛着を形成するようになるであろう。男の子の男らしさの発達にとっては,父親の男らしいふるまい,さらには母親が父親の男らしさをよく認めることが関係してくる。父親の心理的不在ということが今日しばしば問題にされる。たしかに子どもと父親との直接的な接触が極度に少ないということは決して好ましいことではないが,父親の物理的不在即心理的不在ということではないということを認めておく必要があろう。
婦人の社会的進出がますます盛んになってくるこれからの社会においては,母親以外の人による育児がごくあたりまえになるであろう。とくに3歳未満のいわゆる乳児保育については,母親によらない場合,かつては母性愛の欠乏を生じさせ好ましくない影響を子どもの後の発達に及ぼすとされていた。しかし近年の研究は,母と子の接触の時間の長短ということだけで子どもへの影響をうんぬんすることはできないということを示唆している。問題となるのは母と子の相互作用のあり方なのである。つまり母親は保母などの代理者と異なって,子どもへの接し方が良くも悪くも情緒的であり,そのことは子どもに強く影響するはずである。母親が子どもを冷静に客観視できないところに,母親でなくては与えられない影響ということが考えられるのである。したがって,もし母親が子どもに対してあまりに客観的に接するとしたなら,たとえ一日中いっしょにいたとしても,母性愛の欠乏が起きることになるだろう。もちろん乳児の集団保育の条件そのもののあり方いかんが子どもの発達に及ぼす影響を考慮する必要があるが,母と子がともにいるときの過ごし方が大切なのである。
日本の親子関係,とくに母子関係が非常に密着したものであるということが,昔から指摘されている。土居健郎は《甘えの構造》(1971)の中で,母親に十分に世話をされてきた赤ん坊は,生後7~8ヵ月ころになって母親とは分離した存在として自分があることがわかるようになると,以前の完全な母との一体の状態に戻ろう,あるいは少なくとも近づこうとするという。このような完全な依存状態を再び確立しようとする子どもの試みが〈甘え〉であるというのである。これが日本に独特なものであるということは,母親の育児の仕方と当然関係がある。1969年のコーディルW.Caudillらの報告によると,生後3ヵ月の第1子と母親との家庭における相互交渉の観察の結果,アメリカの母親とくらべて日本の母親は,子どもの身近にいることが多く,子どもを抱いたり寝かしつける頻度が高く,子どもを対等に接するものとしてではなく,一方的に世話される受動的なものとして扱っているという。また,日本では母子が相互依存的,共存的で母子の間の境界がはっきりしていないのが特徴であると解釈している。
また東洋(あずまひろし)らによる幼児についての日米比較研究の報告(1981)は,アメリカの母親が子どもの社会的自立や自己主張について日本の母親よりかなり早期にその発達が遂げられることを期待しているのに対して,日本の母親は情緒的成熟(人に迷惑をかけたり,不快感を与えたりしないようにふるまうこと)をより早期に望んでいることを明らかにしている。さらにケーガンJ.Kaganと三宅和夫の,幼児をもつ日米の母親についての最近の比較研究によれば,日本の母親には,子どもの機嫌をそこねたり,あまりきびしく統制したりすることが後の発達に好ましくないと考える傾向が強く,アメリカの母親には,反対に子どもの好きなようにさせることは後に統制のきかない不従順な人間にさせると考える傾向が強いのである。このようにアメリカと対比させてみると日本の母親の子どもへのかかわり方の特徴がはっきりととらえられるが,こうしたことと,日本においてとくに多発する家庭内暴力,母子相姦的現象,嫁しゅうとの間の葛藤などとを直ちに結びつけるのは短絡的にすぎるかもしれないが,児童期以後思春期・青年期にかけての子どもをめぐる人間関係の特徴と関連づけながら,乳幼児期からの母子関係が後の人格形成に及ぼす影響についてさらに考察検討がなされるべきであろう。
→子ども →しつけ
執筆者:三宅 和夫
妊婦がみごもったときから育児は始まる。とくに妊娠5ヵ月ころに行われる帯祝は,胎児を一人の人間としてその生存権を社会的に認めるという意味があり,間引きが多く行われた時代でもこの祝をすませた子どもは育てねばならなかった。帯祝は同時に妊娠の社会的な承認でもあり,着帯のときから妊婦は〈産の忌(いみ)〉に入った。忌の期間は,妊婦の行動や食物などに多くの禁忌が伴ったが,それだけ妊娠は重大な仕事だったのである。また,妊娠中の胎教も,妊婦の精神的安定を第一とし,昔から大切なものと考えられていた。
人間が誕生することは人間界であるこの世へ加入することと考えられ,その承認の儀礼は,成年となるまで何回となく通過儀礼として繰り返される。生まれたばかりの子どもは,霊界ともいうべきところからこの世に取り上げられてまもないため,非常に不安定な状態にあると考えられた。とくに生後3~7日目まではその心配が最も大きく,三日祝や七夜は生児がこの世に生存するか否かの第一段階ともみられた。生後すぐはぼろにくるみ,胎毒下しと称してマクリなどを飲ませておき,三日祝のときに産着を着せ,同じころに産をした異性の子をもつ人の乳を〈乳つけ〉として与えてもらった。乳つけは他人の乳の呪力によって,子の幸福を願う多分に呪術的なものであった。この乳つけをした人は〈乳つけ親〉といって,生児と仮の親子関係を結ぶ。乳つけ親のほかにも,生児のために産育の各段階に応じて,帯の親,取上げ親,名付親,拾い親など多くの仮親(かりおや)をとる風習があった(親子成り)。七夜の祝には生児の名付けを行い,産婆,実家の母親,仲人の女親,近親等を招いて盛大な共食の祝を行って,生児をこの世のものとして承認する。
七夜または11日目の〈初外出〉をウイデ,イダシハジメ,デゾメなどといい,生児に初めて日の目を見せる。菅笠やむつきをかぶせて竈神,井戸神,厠神(かわやがみ),屋敷神などの家の神々に参って供物をする土地もある。このときあやつこといって,生児の額に男子には鍋墨で犬の字,女子には紅で ・ 印をつける。これは悪魔を払うためといわれ,東北地方ではヤスコと呼んでいるが,やはり神の子として生児が承認されたしるしでもある。
ふつう男児は生後32日,女児は33日目に氏神に参る。氏神の氏子となることは,正式に村の一員として認められることである。初宮参りの日をヒアケ,ヒノハレというように,この日で生児の忌が晴れるものとされた。しかし産婦の忌はまだ晴れないため,宮参りには産婆,仲人の女親,しゅうとめ,実母などが抱いて連れていく。宮参りから帰ると,家では餅や赤飯で祝い共食する。
100日前後には〈箸初め〉とか〈百日(ももか)の首すえ〉といって,乳以外のおとなと同じ食物を初めて食べさせる食初めの祝をする。100日目ころは,生児の首がすわるという大切な成長の折目である。食初めには生児のために新しい個人用の膳,椀,箸をそろえ,赤飯や尾頭付きの魚とともに小石をそえる。小石は七夜の膳にも供えられ,産神の依代(よりしろ)とされている。自分の箸・茶椀を与え持たせるということは日本独特の風習であろう。
初正月には男児には破魔弓,女児には羽子板を贈り,また初節供には鯉幟や雛人形の贈答があり祝宴を開く。これらは生児の村をこえた世間への仲間入りの機会でもあった。
生後満1年の初誕生をムカイドキなどといい,餅をつき親類知己を招いて祝う。このころは子どもが立歩きを始めるという飛躍的な成長の時期であり,ここまで無事に育てば育児にも一応のめどがつくため,初誕生はほぼ全国的に祝われている。初誕生には,誕生餅を踏ませる餅踏みや筆やそろばんなどを置きどれをとるかで子どもの将来を占う風があり,誕生前に歩き出す子には一升餅を背負わせ倒すなどの風習もあった。このほか,幼児期の祝として七五三の祝があり,髪置,紐落し,帯付け,帯ときなどの祝をして成長の各節目を祝った。地方によっては,七五三全部でなく,三つと七つ,あるいは七つだけを祝った。
子どもははい出すようになると子守をつけたが,それまではつぐらまたはイヅミなどというわら製の籠に入れて育て,3日目または7日目に生児をそこに入れる風習が各地にあった。また,幼児期には,夜泣き,疳(かん)の虫,麻疹(はしか),疱瘡など多くの病気や患いがあるため,各地には種々の呪法や俗信が伝えられている。子どもは7歳くらいになると,子供組などに加入し,集団生活の中でしつけや教育を受けていくことになる。
執筆者:大藤 ゆき
動物の育児は,子孫を確実に残すことを目的とするものであるから,一般に産児数の少ない動物ほど育児行動がよく発達している。
大部分の昆虫は卵を産みっぱなしにするが,ほとんどの場合,孵化(ふか)した幼虫の食物となるものの上に産卵する。これも広い意味で育児であろう。産卵数が少なくなるにしたがい卵の保護も綿密になる。たとえば甲虫のオトシブミは,木の葉を巻いてその中に産卵し,孵化した幼虫はこの葉を食べて成長する。タマオシコガネの糞(ふん)球づくりも同様である。狩りをするハチの多くは巣をつくり,この中に幼虫の食物になるものをつめておくが,アシナガバチ,スズメバチ,ミツバチ,アリなどに,巣をつくると同時に幼虫の世話をする個体のいることは有名である。このような種は必ずしも産卵数は少なくなく,大量の卵と幼虫が保護されている。エサキモンキツノカメムシやハサミムシのように雌が卵の上や周囲にいて守る昆虫もいる。カマキリ,ゴキブリのように卵を泡状の固形物や堅い鞘(さや)に入れるものもある。また,カニムシの雌のように幼生を腹の育囊に入れ栄養液を与えるといった積極的な保育を行うものもいる。
同様のことが水中生活をする動物にもみられる。大部分は卵を水中に放出するだけだが,ウミホオズキ(テングニシ)の卵は堅い袋に入っており,ハタハタは粘着性のある卵で藻についている。トゲウオの仲間は巣をつくり,その中に産卵する。ドブガイの中に産卵するタナゴもいる。子どもを積極的に保護するものとしては,コモリガエルが背中の袋に卵を入れてオタマジャクシをかえらせるとか,タツノオトシゴの雄が腹部の袋の中に産みおとされた卵を孵化させるとか,マウスブリーダーと呼ばれるある種の魚では稚魚を自分の口の中に保護するとかの行動が知られている。
育児の最も発達するのは鳥類,哺乳類で,これは産児(卵)数が少ないことだけでなく,個体の成長に時間がかかること,捕食される危険が大きいこと,出産の事情などさまざまな要因が関係する。鳥類はふつう産卵後20日前後,一般に雌が抱卵するが,ハトでは雌雄が交代し,タマシギでは雄が抱卵する。地上に巣をつくり産卵する種は,ひなは孵化直後から独立して行動するものが多い(早成性または離巣性)。このような鳥のひなは,孵化と同時に目があき,羽毛も生えそろって歩行も可能であり採餌もする。しかし,地上では外敵に襲われやすいので隠れるのに適した保護色が発達し,親の警戒の鳴声に敏感で,隠れたり,うずくまって静止する行動が発達する。ガン,カモ,シギ,チドリ,キジなどがこの仲間だが,親はすぐ離れてしまうわけではない。飛翔(ひしよう)できるようになるまでは,ともに暮らし,餌を与えたり,警戒したり子を保護する。カモメはひなが親のくちばしの一部をつつくと餌を吐き出して与え,危険が近づくと警戒声を発し,ときには外敵に攻撃を加える。ウズラやヒバリのように親鳥が傷ついたまね(擬傷)をして,捕食者に自分を追わせひなのいる場所から遠ざける鳥もいる。孵化したひなが未成熟で羽毛も生えず,目もあいていないような場合(晩成性または留巣性),親鳥は長期間,餌を運んで育雛(いくすう)する。巣は一般に樹上,洞穴など安全な場所につくられる。ハト,ツバメ,フクロウ,タカ,ホトトギスなど留巣性の鳥は多く,ひなは親の給餌に敏感に反応し,大きな口の周囲に目だつ斑紋があって親はこれを目標にひなの口中に餌を落とす。親鳥は巣を中心になわばりをもち,これを防衛するものが多い。
胎生の哺乳類は産児数が少なく,ほとんどが晩成性で親の保護と哺育を必要とする。産児数は多くても10個体内外(イヌ,ネズミ)で,サル,クジラ,ゾウのように1匹が標準である場合が多い。カンガルー,オポッサムなどの有袋類は胎児期間が短く,ほとんど未発達の状態で出産するために母親の袋(育児囊)の中で成長する。カンガルーは40日ほどで生まれ,5ヵ月近くこの囊の中に出入りする。母親は乳を与えるほか,排出物の始末もする。肉食獣の多くも出産直後の子どもは小さく,ひ弱で歩行も完全ではないので,ライオンやネコのように口にくわえて運ぶものがいる。これに反して草食獣は胎児期間も長いが,出産直後から独自の行動をとるものが多い。親について歩いたり走ったりすることができるので哺乳期間も短いが,群れで生活する場合は,独自の生活ができるようになっても親とともに暮らす。この場合,幼獣は群れの中心におかれ保護される。しかし,子どもがいつまでも親といっしょにいてはつごうの悪い場合,たとえば,一応の生活が可能になったキタキツネの子別れのように,子どもを親の周囲から追い払う場合もある。サイも次の繁殖期に入ると子どもをつきとばして接近させなくなる。完全に成長した時点で子どもをつき放すのも育児の一つである。
執筆者:奥井 一満
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…そして人間は,〈弱い子ども〉を育てていくために,家族はもとより,村落共同体をあげて子どもを育てるための手だてをつくしてきた。こうして教育の原型は育児にあり,人類と民族の育児の習俗のなかに,子どもの発達と教育についての知恵と技術は蓄積され,受けつがれてきている。その意味で育児の習俗は,人間の文化伝達の形態であると同時に,これ自体が人間の文化の重要なジャンルを構成しているといってよい。…
… ラドクリフ・ブラウンの主張からも明らかなように祖父母と孫の親和的関係はどの民族の人間関係にも共通した傾向であり,日本の場合にも例外ではない。日本における祖父母と孫の関係としてとくに注目されるのは,育児がしばしば父母ではなくて祖父母によって担われることである。親夫婦と子ども夫婦が同一家族であっても別々の生活単位を形成する隠居型家族においてとくにこの傾向が強く見られる。…
※「育児」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加