能登部下村(読み)のとべしもむら

日本歴史地名大系 「能登部下村」の解説

能登部下村
のとべしもむら

[現在地名]鹿西町能登部下

北東は能登部上村と徳丸とくまる村に接し、その間に飛地の縄手のうてがある。南西金丸かねまる村、北西眉丈びじよう山系分水嶺を越えて下後山しもうしろやま分がある。山麓に沿って西往来が通り平野部を長曾ながそ川が南流する。古くは能登部上村などとともに能登部村に含まれ、近世初期に分離したが、郡内にしも(現七尾市)があったので能登部下村、あるいは単に能登部村とよばれた。天文一七年(一五四八)二月二〇日の気多社免田年貢支配状(気多大宮司家文書)によれば、基佳支配分の能登辺のとべ村に所在する神免田のうちに下村の負担分九石三斗が設定されていた。

天正八年(一五八〇)から長連竜領で、文禄二年(一五九三)の鹿島半郡高帳に能登部村とみえ、領家分三八九石余・地頭方四五七石余を含み高一千六〇七石余。寛永五年(一六二八)の上野組半郡人別帳(戸部文書)によれば家数一二四(うち百姓四〇・御扶持人三・侍下人並被官一一・馬喰二・山伏二・大工二・紺屋一・玉泉坊一・道場三など)、牛馬六〇。正保郷帳では能登部下村・能登部上村の高二千二三五石余、田方一三三町九反余・畑方一五町一反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報