臼井城跡(読み)うすいじようあと

日本歴史地名大系 「臼井城跡」の解説

臼井城跡
うすいじようあと

[現在地名]佐倉市臼井台・臼井田など

印旛いんば沼に突出する臼井台地の東縁中央部に位置。西から東へ延びる舌状台地全域を城域として、主郭部は二ヵ所の郭と腰曲輪群から構成される。鎌倉期に千葉氏一族の臼井氏が居城し、一四世紀中頃に足利氏の勢力を借りて本領の臼井に復帰したと伝えるが不詳。文明一〇年(一四七八)古河公方足利方の千葉孝胤太田道灌との境根さかいね(現松戸市)の合戦で敗退し、臼井城に籠城したという(鎌倉大草紙)。同一二年頃と推定される一一月二八日の太田道灌書状写(松平文庫)によれば、太田道灌は千葉自胤とともに同一一年に千葉孝胤を臼井城に攻めている。数年後千葉宗家が本拠本佐倉もとさくら(現酒々井町)に移したが、旧本拠の千葉城からこの移転までの空白期が千葉宗家の居城であった可能性がある。千葉氏の本佐倉城築城後は臼井氏、のちに千葉氏重臣の原氏が在城、本佐倉城の西方の前衛拠点とされた。原氏は一六世紀中頃には千葉宗家の衰退に伴い下総国の政治的な盟主となり、本貫地の生実おゆみ(現千葉市中央区)とともに臼井城も拠点にし、安房の里見氏と対峙した。永禄四年(一五六一)上杉政虎(謙信)の小田原攻略に呼応する里見義弘・正木大膳により落城したが、同七年の第二次国府台合戦で里見氏が敗れたため原氏が復帰したとされる(「総葉概録」など)。同八年と推定される二月一八日の酒井胤治書状写(河田文書)によると、里見方の酒井胤治が守る土気とけ(現千葉市緑区)を攻めた小田原北条軍のなかに臼井衆として原弥太郎・渡辺孫八郎・大厩半九郎などがみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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