知恵蔵 「舛添要一」の解説
舛添要一
2001年、自民党候補として参議院議員選挙に出馬。比例代表区で最多票を獲得し、初当選を果たした。主に厚生関係の役職を務めながら、05年には「自民党新憲法草案」(第1次)をとりまとめ、以降、参議院外交防衛委員長、参議院自民党政策審議会会長などを歴任した。07年の参議院議員選挙で再選を果たすと、第1次安倍晋三内閣・福田康夫内閣・麻生太郎内閣で厚生労働大臣を務めた。この間、消えた年金記録問題、中国毒ギョーザ事件、新型インフルエンザなどへの対応に追われながら、省内組織や医療行政の改革にも積極的に取り組み、世論調査では「次期首相にふさわしい政治家」の上位にランクインするようになった。
だが、民主党政権が誕生した翌10年、自民党を離脱し、「改革クラブ」の議員と「新党改革」を結成。自民党からは除名処分を受けた。13年夏の参議院選挙には出馬せず、「新党改革」の代表も辞任したため、事実上の政界引退と見られていた。しかし、猪瀬直樹の辞職に伴う14年2月の東京都知事選に、自民党・公明党の支援を受けて出馬。選挙戦中は、2020年東京五輪の成功、直下地震などの防災対策、福祉・雇用対策の充実を訴え、「脱原発」を争点に挙げた細川護煕や共産党・社民党が推薦した宇都宮健児らをおさえて圧勝した。
(大迫秀樹 フリー編集者 / 2014年)
舛添要一
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出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報