舞中島村(読み)まいなかしまむら

日本歴史地名大系 「舞中島村」の解説

舞中島村
まいなかしまむら

[現在地名]穴吹町三島みしま

穴吹村の北西に位置し、東流する吉野川とその分流で南隣三谷みたに村との境を流れる小俣こまた(現明連川)とに挟まれた川中島(砂洲)を村域とする。西は小島おしま村。吉野川を挟んで北はわき町・猪尻いのしり(現脇町)で、この間を舞中島渡や猪尻渡が結んでいた。伊予街道が横断する。元来は三谷村と地続きであったが、天正一〇年(一五八二)洪水で分流明連みようれん川が生じ、切離されたと伝える。ただし昭和五二年(一九七七)に竣工した吉野川の堤防により、現在明連川は閉切られている。川中島は南北〇・八キロ、東西二・七キロで、面積は約一七〇ヘクタール、吉野川水域では善入寺ぜんにゆうじ島に次ぐ規模であった。当村は吉野川の川中島に発達した村であり、また下流の岩津いわづ狭窄部(阿波町と山川町の間)の影響もあって、常に洪水の危険にさらされていた。このため集落は周囲を掻寄堤(土盛堤)と竹林で囲み輪中の体をなした。たんに中島村ともいい、また舞中島の地名は三谷村の字まいと関連するといわれる(「阿波国郡誌」など)

慶長二年(一五九七)の分限帳には稲田小八郎(示稙)知行分のうちに舞中島高四三三石余がみえる。正保国絵図では中島村とあり、高四三四石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳でも中島村とみえ、水損の注があり、高四三四石余、すべてが畠方。「阿波志」によると土田の等級は中等、反別は七二町余、陸田が一〇分の九、水田が一〇分の一の割合で、家数一一九。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高四〇五石余。同年の棟付家引帳(大塚家文書)によれば、家数三五四、内訳は神社四・神轡庫一・方丈一・堂二・鎮守九・霊神一七・居宅一六四・部屋三・門五・土蔵二三・寝床五・納屋二七・厩五四・牛屋五七(ただし合計は合わない)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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