船尾村(読み)ふなおむら

日本歴史地名大系 「船尾村」の解説

船尾村
ふなおむら

[現在地名]堺市浜寺はまでら船尾ふなおひがし一―四丁・船尾ふなお西にし一―五丁・諏訪森すわのもりひがし一―三丁・諏訪森すわのもり西にし三―四丁・諏訪森すわのもりなか一―三丁・もと町一―二丁〉など

下石津しもいしづ村の南に位置し、西は大阪湾に臨む。村の西部を紀州街道、東端部を熊野(小栗)街道が通る。「ふのお」ともよび大鳥郡に属する。村内には縄文時代以降の複合遺跡四ッ池よついけ遺跡があり、早くから開かれた地であることが知られる。元徳三年(一三三一)八月一二日の秦為季御影堂陀羅尼田寄進状(高野山文書)によると、秦為季が紀州名手なて江河えがわ(現和歌山県那賀郡那賀町)のうち二二〇歩を高野山御影堂陀羅尼田として寄進したが、為季は「塩穴庄中条船尾」の住人であった。


船尾村
ふなおむら

[現在地名]印西市船尾・原山はらやま内野うちの高花たかはな

松崎まつざき村の西に位置し、北は多々羅田たたらだ村。「和名抄」所載の印旛いんば船穂ふなお郷の遺称地とされる。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図では印旛沼に通じる水路に面する。この水路はのちの神崎かんざき川で、船尾河岸が置かれていた。「利根川図志」によれば印旛江の端で、佐山さやま(現八千代市)に渡す神崎橋より上流へは高瀬船が通じないという。延宝四年(一六七六)惣深そうふけ新田から下畑五〇町余・二五三石余などを割渡され成立し、幕府領であった(印西町史・印旛郡誌)元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では舟尾村として高六二九石余、幕府領と旗本大岡領。その後大岡領分が佐倉藩領となったらしく、寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚では高三六六石余、夫役永一貫一一文・林下刈代永五〇文。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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