近世まではもっぱら「学芸・技術」の意で用いられたが、明治期に西洋文化の摂取が盛んになるに及んで、英語の art その他、美の表現・創造を共通の概念とするヨーロッパ各国語の訳語としての③の意が出現した。ただし、明治初期にはむしろ同じ訳語に「美術」を用いることがより一般的であり(たとえば明治五年(一八七二)の西周「美妙学説」、同一八年(一八八五)の坪内逍遙「小説神髄」)、「芸術」が新しい意義で定着するのは、ほぼ明治三〇年(一八九七)前後である。
独自の価値を創造しようとする人間固有の活動の一つを総称する語。このような意の日本語としては明治20年前後に翻訳語として始まり,今日では完全に定着したが,この語にあたる西欧語はアート,アールart(英語,フランス語),クンストKunst(ドイツ語),アルテarte(イタリア語,スペイン語),さかのぼってはアルスars(ラテン語),テクネーtechnē(ギリシア語)である。それゆえ芸術の意味を考えるには,芸の正字〈芸〉や〈術〉の語義を中国および日本の文化史に追いもとめる以上に,西洋における芸術観の展開を重んじることになる。
Kunstは技術的能力にかかわる動詞können(できる)に発し,artやarteの由来せるarsはtechnēの訳語として用いられた。technēは近代語テクニックtechniqueなどの語源であり,〈制作〉とか〈技術〉を意味する。すなわち言葉からみれば芸術は技術と類縁であり,最広義では技術にふくまれる。ところですでにギリシア人は知の性格を技術に認め,これを経験と学問の中間に位置づけていた。学問は真理の認識そのものを目的とし,原理の探究から普遍的な知の体系構築へすすむことを使命とする。他方,技術は明確な作物の制作を目的とし,この点でたんなる経験を超えるが,つねに個物にしばられる点で学問から隔たる。理論の普遍的な知を個々の具体的な事例に適用しつつ,あくまで特殊の認識に生きるのが技術の使命であり,これは芸術にも当てはまる。
ラテン語のarsはこの知としての性格を強め,しばしば〈学問〉と訳す方がよいほどである。7種の〈自由学科artes liberales〉(自由七科)が自由人の修めるべきこととされたが,その内容をみればarsの学的性格は明らかであろう(7種はのちに〈三学科=トリウィウムtrivium〉:文法・論理・修辞と〈四学科=クアドリウィウムquadrivium〉:算術・幾何・天文・音楽に区分される)。なおこの点では歴史的にさらに古く中国(周代)でも士以上の必修科目として六芸(りくげい)(礼・楽・射・御・書・数の技芸)の定められていたことは興味深い。
さて建築をはじめ自由学科に数えられなかった職人的技術の地位を高めたのはルネサンスの巨匠たちであり,その後,諸芸術の躍動につれて18世紀には芸術を統一的にとらえる企ても生じ,やがて美・芸術の原理学たる美学の成立をみるまでになった。この過程で近代の努力が確認したのは〈美的価値の実現〉こそ芸術を他の技術から区別する核心ということであり,この見方は万人の賛同をえて芸術は〈美しい技術〉(ファイン・アーツfine arts,ボーザールbeaux-arts,シェーネ・キュンステschöne Künste)と呼ばれ,ついに19世紀以降今日では形容詞fineなどを省く名詞だけで芸術を意味するにいたり,この用法を先人は日本にも導入したのであった。
美しいものは目に見え,耳に聞こえ,心に訴えてくる。このようにだれしもそなえている感性のとらえる精神的価値が広義の美であり,美的価値である。そして美は珠玉などの個物に,広大深遠な景物に,あるいは艶麗な人体に,また人間関係のかもす種々の感動として,いたるところに遍在する。だが日常における美のあり方ははかなく,たちまち消えゆくのがつねである。ここに芸術が美をとどめおくことばかりか,ひいては美を新たに創造することをも使命として登場する。したがって創作の機構に芸術の特質は最も明らかとなるが,古来の創作論を大別すれば模倣説,表出説,形成説の三つが挙げられる。
(1)模倣(再現)説。創作の本質を模倣とみる見解が最も歴史の古い芸術観であろう。模倣は創造と反対の真似(まね)を思わせやすいが,ここでは事物の再現という積極的な意味で考えられている。美しいものごとの感覚的外形を模倣して作中におさめ,その美を永くとどめようとするのだが,それだけでない。芸術家の目は鋭く,外形の背後に事物の本質を見抜いて,これを教示してくれる。このような本質の模倣にまでいたれば,芸術はただ感覚と戯れるばかりでなく,〈知る〉という人間の根源的な営みにかかわることになろう。ただし芸術には多様な種類があり,模倣芸術と呼ばれるなかでも,絵画・彫刻などの造形美術と詩・小説などの文芸では模倣のしくみも異なり,演劇ではいよいよ複雑になる。なお,アリストテレスの《詩学》は直接にはギリシア悲劇を扱っているが,模倣についての洞察が深い古典であり,後世への影響は文字どおり最大,いまなお傾聴すべき芸術論である。
(2)表出説。だが芸術は模倣芸術に尽きない。音楽や建築を模倣で語りきることはできない。この事情をふまえて,ことに近代に力説されるようになったのが表出説であり,個人の感情や気分の表出こそ芸術全般にゆきわたる創作の本質とみる見解である。西洋ではルネサンス以来各方面で,個性ゆたかな芸術家がそれぞれ独自の表現を開拓してきたが,その歴史的動向を思えば表出説の強調も当然であった。だがこの主張も実質は決して新しくない。中国や日本における書の敬重や水墨画の評価には,一点一画にたんなる技巧以上の人格の影をみとめ,表出された精神性の深みを重んじる態度がうかがえる。さらにさかのぼれば,有史以前の洞窟壁画や土偶や文様などには,何か姿も見えぬ畏怖の対象に対する共同体全体の祈願というべき感情がこめられていて,そのあまりの強烈さに人々は,作品にたたえられている呪術性をつねづね語ってきたものである。
(3)形成説。表出とさきの模倣とは正反対にみえる。だが視線が人間の外に向かうか,それとも心の内かの違いはあっても,表すべきものがあらかじめ前提されることでは共通の構造を示すはたらきであり,それゆえ表出も模倣もともに表現という一語にまとめられてふしぎでない。しかし芸術創作はたんなる表現でなく,表現にさいして新たに独自の形式をつくりだす営みでなければならないとして,この契機を重視するのが形成説である。
ところで作品の形成には素材が必要で,これには2種類ある。一つは何を表現するかという〈題材(主題)〉である。もう一つは素材は何を用いて表現するかという〈媒材〉である。いかなる分野でも媒材を思いのまま扱えるようになるまでに,芸術家は厳しい修練を経てこなければなるまい。そのすえにはじめて自然界にみられぬ新たな美を創造することも可能になろうが,これが日常の生活ではたやすく成就できることでない理由も,同じところにある。なお,新しい媒材は続出するし,これに応じて新芸術も登場することになる。印刷,写真,映画,ラジオ,テレビ,コンピューターなど近代工業の成果とむすぶ諸芸術の活動はそれぞれ目覚ましい。だが媒材の新しさがそのまま美的価値の新たな創造とはいえないことに用心すべきである。
さてわれわれとしては上記3説を総合し,作家による〈体験の表現(模倣・表出)の形成〉が芸術作品の基本構造とみておけば,個々の具体例にもほぼ誤りなく対処できよう。
芸術作品は無数無限につくりだされる。それだけに統一的な説明をもとめて,古来諸芸術の体系的な分類もくり返されてきた。感覚を分類原理として〈視覚芸術〉と〈聴覚芸術〉に分けたり,類型学の立場から〈自由芸術〉と〈応用芸術〉,〈空間芸術〉と〈時間芸術〉,〈事物的芸術〉と〈非事物的芸術〉に分けるなどである。だが数々の理由から当然とはいえ,決定的な分類が立って芸術理解を指導するわけではない。具体的な個々の作品理解においてはむしろ様式とジャンルの両概念がたいせつである。作品には,つくる主体のがわからみれば,作家の個人的特質から背後の時代とか風土の特性など,さまざまな主観的条件が刻みこまれる。逆に客体となる条件のがわからみれば,媒材,題材,表現方式の3契機が歴然と作品の存立を支えている。このような作品に即して,様式とは一作品がそなえている主観的な個性的相貌の類型的性格を語る概念であり,ジャンルとは客観的に類型的統一をかたちづくる作品群を呼ぶ概念である。いずれも類型概念として群のなかの個物を際だたせるに有効である。例えば様式やジャンルが明確ということは,当該作品を相似た作品群の中心部に据えて,その普遍性を保証してくれる。反面その位置に安住すれば多数の人々には理解しやすくなっても,今度は芸術の特異な冒険性を裏切りかねない。現代芸術が様式を否定しジャンルの固定化をいとう傾向や,複製芸術がはらむ問題などは,この観点からも扱うことができよう。
芸術作品を前にして感動を覚えるとき,その悲しみや喜びは個人的利害にはつながらず,人間たることを確認しての共感である。日常生活は利害や関心の刺激がたえず,これほどに心を深める機会を見いだしがたい。芸術家の生涯に苦闘の跡は多く,芸術史全体を見渡しても,平穏無事の時期よりも不安激動の時代にこそ偉大な作品は創造されてきたと思われる。芸術は時代の記録としても貴重である。過去の世相を思いえがくことができるのも,当代芸術作品の明確な形式に,多様な現象の外形が写しとられ,同時にその時代に生きた人々の心のさまが表されているからである。それゆえ芸術のもつ教育的機能を見落とすことはできない。芸術家は美の創造を使命とするからには,冒険家として人生の全領域をくまなく探査し,新たな発見を明確な形式におさめて提供する。その確実な情報を無視できるものでない。だが他方で,社会には旧来の秩序を維持しようとする傾向がある。そのために芸術の冒険と社会とのあいだに緊張や対立が生じ,検閲や統制の問題を招くこともあるが,これがまた刺激となって芸術の新たな躍動をうながすのである。
芸術が時代の特質をすばやく察知するのは,芸術の本質が美の創造にあり,美とは感性にふれる精神的価値だからである。感性は生命を支える根源にほかならず,諸他の動物と同様人間がいきいきと活動できるのは感性につき動かされてのことである。だが動物は意味を知らず価値を自覚しない。この地上では人間だけがものごとの意味を問う存在であり,また人間を導く価値として真や善や聖,そして美を希求してきた。意味や価値をめぐるさまざまな文化的営為のなかで,感性的存在としてひとり立つ人間をまさに人間たらしめる,繊細微妙な心をはぐくむのが芸術にほかならないだろう。
→技術 →美術
執筆者:細井 雄介
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
作品の創作と鑑賞によって精神の充実体験を追求する文化活動。文学、音楽、造形美術、演劇、舞踊、映画などの総称。芸術のジャンルを枚挙し分類する考えの一例として、フランスの美学者スリオの図表(一つ一つの扇形は感覚的素材の特殊性を表し、それに対応する芸術ジャンルが、外円(再現的芸術)と内円(非再現的芸術)の2層に分けて示されている。
)をあげておこう。円を7分割している[佐々木健一]
これらの芸術現象そのものは、洋の東西を問わず古代より存在したが、文学、音楽、美術などを包括して一つの領域とみる考え方、すなわち類概念としての芸術は、ようやく18世紀中葉の西欧において成立したものである。この近世的概念としての芸術はまず「美しいart」(フランス語ではbeaux-arts、英語ではfine arts、ドイツ語ではschöne Künste)と表現され、日本でも当初(明治5年以後)これを直訳した「美術」が芸術の意味で用いられた。西欧語の「美しいart」は芸術一般をさすとともに造形美術の意味でもあるが、日本語での芸術‐美術の区別が定着したのは明治30年(1897)以後であり、また最初に訳語としての「芸術」を用いたのは1883年(明治16)の中江兆民と思われる。しかし「藝術」という語(藝と芸は本来別々の二つの文字であるから、芸を藝の略字として用いるのは正しくない)そのものは、『後漢書(ごかんじょ)』にも用いられた古いことばであり、学問と技芸をさしていた。つまり、今日芸術と考えられているものはその一部分にすぎなかった。その点は西洋でも同様で、18世紀末には端的にartといって芸術をさすようになるが、artはもともとずっと広い領域を包摂していた。
そのartはラテン語のアルスars、さらにギリシア語のテクネーtechnēに由来し、これらのことばが学問と技術の二つの意味を内包していることは、漢語の「藝術」との顕著な近似性である。この技術的学問もしくは学問的技術の広い領域のなかで「藝術」の示す特殊性を、西洋の近世が美に認めたのは、芸術の本質を美と考えたからにほかならないが、この思想もけっして古来のものではない。古代ギリシア人は「ミメーシスmimēsisのテクネー」の概念によって、ほぼ芸術に対応する領域を定義していた。ミメーシスとは現実の事象の模倣もしくは再現のことであるから(たとえば肖像画を考えよ)、これはものをつくる仕事の様態によって芸術を規定する考えであり、それに対して近世的な「美しいart」は、つくられた作品のねらいとしての効果の面に芸術の本質をみているのである。すなわち、芸術概念そのものが歴史的に変化しており、一義的に定めることは不可能である。獲物を求めて行われた原始時代の呪術(じゅじゅつ)的芸術と、現代の前衛芸術の距離は遠い。近い過去を振り返っても、写真や映画が芸術であるか否かは論争をよぶ事柄であったし、現にたとえばコンピュータ・アートはそのような問題を構成している。新たな可能性の開拓とともに芸術の領域は変化し、それとともに芸術の概念も改定されてゆく。歴史的に変動するということは、どの時点をとってみても、芸術の領域が、近接する学問や「わざ」の領域との間に明確な境界線をもっていたわけでない、という意味でもある。
[佐々木健一]
しかし、このような変動性やあいまいさのなかにあって、芸術を芸術たらしめているものとして、三つの契機をあげることができる。「わざ」と知と作品であり、これはテクネー‐アルス‐アートの主要語義に対応している。力点の置き方はさまざまであっても、この三者の総合が芸術である。芸術作品は人間の作物のなかでも、日用品や道具や機械などとは異なり、その目的は限定されていない。できる限り充実した体験を可能にするということが、芸術作品の使命である。したがって、それを生み出す「わざ」もまた、ある一定の目的を満足すればよいというようなものではなく、可能な限りの高みを目ざす冒険の精神に支えられたものである。そしてまた、芸術における知も、学問的な知のように概念的言語によって説明される種類のものではなく、あるいは実際の創作によって体得される「かん」や「こつ」のようなものであり、あるいはその作品の鑑賞によってしかみえてこない境地のようなものである。前者は「わざ」と知の一体となった能力であり、後者は作品が鑑賞者に対して繰り広げる個性的な世界である。
この作品世界は、ことばでとらえ尽くせないものであるからこそ、かえって、鑑賞者はそれをことばで語ってみたくなる。単なる感想から高度の評論に至る活動がそこに生まれてくる。しかし、どれほど語ってみても、なおかつ語り尽くされないものが傑作のなかにはある。したがって、特定の目的に鎖(とざ)されていない作品は、作者にとっても鑑賞者にとっても緊張の結晶であり、泉のように多様な意味を湧(わ)き出させるものとして、それはオリジナルな世界である。このオリジナルな世界は作者の個性を刻印した「作者の世界」だが、作者の意図を超えた可能性をはらんでいるという意味では、作者1人のものではなく、自律的な世界である。作者の意図を超えた意味を掘り起こすのは、鑑賞者の解釈である。したがって芸術作品の世界は、可能な限りの高みを目ざす芸術家の冒険の精神によって生み出され、最大限の意味充実を求める鑑賞者の本性的な志向性によって現実化されるものである。
このようにしてみえてくる作品世界の意味充実が、美である。芸術美は真や善や聖などのあらゆる価値を排除せず、それらの表現のうえに達成される作品存在の質であり、この意味においてのみ、美は芸術の本質であるといいうる。近世以後の芸術概念の中心を占めてきたのは作品であり、単に芸術といえば芸術作品を意味するのが普通だが、現代の前衛のなかには作品概念を攻撃する傾向が根強くある。それは作品を静的な対象と考えてのことであり、この批判の根底には、生き生きとした精神の現動性を重んずる現代思想共通の態度がある。この思潮は、作品概念を破壊するよりはむしろ、解釈の可能性をはらんだ作品世界の奥行を明らかにしつつある、といってよい。
[佐々木健一]
『佐々木健一著「芸術」(『講座美学2 美学の主題』所収・1984・東京大学出版会)』▽『渡辺護著『芸術学』改訂版(1983・東京大学出版会)』▽『新田博衛編『芸術哲学の根本問題』(1978・晃洋書房)』▽『山崎正和編『近代の芸術論』(1974・中央公論社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…芸術諸ジャンルのうち,人間の身体をもって表現する技法と形の伝承をいう。音楽,舞踊,演劇,演芸などの類がそれである。…
…〈美術〉という語は東洋古来のものではなく,西洋でいうボーザールbeaux‐arts(フランス語),ファイン・アーツfine arts(英語),ベレ・アルティbelle arti(イタリア語),シェーネ・キュンステschöne Künste(ドイツ語)などの直訳であり,日本では明治初期以降用いられた。美の表現を目的とする芸術を意味し,したがって絵画,彫刻,建築,工芸などのほか,詩歌,音楽,演劇,舞踊などをも含むものとされた。明治時代には文学も美術に加えられていた(坪内逍遥《小説総論》など)。…
※「芸術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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