江戸初期に活躍した長崎の朱印船貿易家。肥後国熊本生まれ。名は一清(かずきよ)、通称惣右衛門(そうえもん)。武士の出という。1592年(文禄1)豊臣(とよとみ)秀吉から朱印状の交付を受けた末次平蔵(すえつぐへいぞう)らいわゆる九艘(そう)船の一人といわれる。1606年(慶長11)に暹羅(シャム)国(タイ)あて、1610年安南(アンナン)国(ベトナム)交趾(こうち)あて、1619年(元和5)から1632年(寛永9)の間には数回交趾あての、彼に対する朱印状交付が記録されている。その後は、オランダ東インド会社のマークを逆さにした船旗をたて、自ら商船に乗り組んで活動し、安南国王の外戚阮(がいせきげん)氏の信頼を得てその娘を妻とした。荒木家は鎖国に際して長崎に移住し、のち1690年(元禄3)以後は長崎西築町の乙名(おとな)役を務めた。
[沼田 哲]
『川島元次郎『朱印船貿易史』(1921・内外出版社)』
江戸初期の朱印船貿易家で長崎の有力町人。名は一清,通称惣右衛門。肥後国の出身で1588年(天正16)ころ長崎に移り,飽ノ浦に住んで貿易を行った。記録の上では1606年(慶長11)に暹羅(シヤム)に,10年には交趾(コーチ)に,そして19年(元和5)から32年(寛永9)まで数回交趾にみずから渡航したが,交趾の高官阮(グエン)氏に信頼され,貴族の待遇を受け,阮氏の娘を妻とするなど,当時の有力な朱印船貿易家であった。荒木船の船旗はオランダ東インド会社のマークを逆さにしたものを使用していた。宗太郎の子孫は代々長崎西築町の町乙名(町名主にあたる)を務め,同家には船旗や安南(アンナン)国書,同国製の鏡などを伝えていた。
執筆者:中田 易直
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(中田易直)
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?~1636.11.7
近世初期の朱印船貿易家。肥後国に生まれ,1588年(天正16)長崎に移住。1606年(慶長11)のシャム渡航を初見として,鎖国直前の32年(寛永9)まで6回の朱印船派遣が確認される。渡航地はおもに交趾(コーチ)(中部ベトナム)で,みずから渡航して交易にあたった。交趾の実力者の阮(げん)氏の信任が厚く,その一族の女性を妻とした。荒木家はその後,長崎西築町の乙名(おとな)役を勤め,代々継承した。
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