荒田村(読み)あらたむら

日本歴史地名大系 「荒田村」の解説

荒田村
あらたむら

[現在地名]北会津村和合わごう

東と南は下荒井しもあらい村、北は田村山たむらやま村、北西は宮下みやのした村。かつては宮下村を下荒田村、当村を上荒田村と称したという。村内は三区に分れ、北を北村きたむら、南東を深屋敷ふかやしきとよんだ(新編会津風土記)。元弘三年(一三三三)八月日の門司親胤申状案(門司氏文書)によれば「会津内上荒田村田畠在家等」は、正応年中(一二八八―九三)元寇時の働きにより、豊後大友氏支族の門司氏に与えられている。門司親胤は下総次郎三郎を名乗り、北条氏の被官であった。親胤は上荒田村の田畠在家を自分の本領として安堵の綸旨を賜りたいと建武新政府に要求している。元弘三年七月一九日の後醍醐天皇綸旨(由良文書)では「陸奥国泉荒田 泰家法師跡」の地頭職が岩松経家に与えられた。

荒田村
あらたむら

[現在地名]菱刈町荒田

南浦みなみうら村の北西、北西流する川内せんだい川南岸にある。北東は馬越まこし前目まえめ村、西は曾木そぎさと(現大口市)。応永一八年(一四一一)八月一〇日の菱刈院地頭職知行所注文写(篠原文書)には、鵜羽彦三郎入道知行所として荒田原名地頭分門一がみえる。

近世には本城ほんじよう郷に属し、野町が東端南浦村境にあった。文禄四年(一五九五)、菱刈本城のうちの荒田原之内町屋敷八石余と南浦村五六六石余を合せた計五七四石余が東郷源七郎(永吉島津氏豊久弟)に与えられた(「伊集院幸侃・本田三清連署知行目録」永吉島津家文書)

荒田村
あらたむら

[現在地名]鳥取市良田よしだ

高住たかずみ村の西、湖山こやま池の南岸にある。慶長一〇年(一六〇五)の気多郡高草郡郷帳に「荒田・深山口」とみえ、高五九一石余、田五一町五反余・圃四町九反余、物成四三五石余。藩政期の拝領高一九三石余。寛保二年(一七四二)の高草郡村々下札帳写(賀露神社文書)によると生高二二二石余、本免五ツ一分、川役米一石・役米一石二斗・藪運上銀二匁を課されていた。このうち役米は倉見くらみ村などと同様、享保一一年(一七二六)から課された(在方諸事控)

荒田村
あらたむら

[現在地名]平賀町荒田

北側を引座ひきざ川が西流し、対岸は新屋町あらやまち(現尾上町)、東は平田森ひらたもり村、南は小和森こわもり村に接する。

津軽一統志」によれば、元亀年間(一五七〇―七三)乳井にゆうい(現弘前市)の福王寺玄蕃は大光寺だいこうじの滝本播摩守重行に、猿賀さるか(現尾上町)からの帰途荒田で待伏せされ、従者ともども殺害された。津軽の旧勢力である乳井氏と、南部より進出して平賀地方の中心部を押えた滝本氏の衝突であった。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀郡の新田に高七六四・九八石とある。

荒田村
あらたむら

[現在地名]鹿児島市上荒田町うえあらたちよう・荒田一―二丁目・下荒田しもあらた一―四丁目・天保山町てんぽざんちようなど

鹿児島城下の南に位置し、北は甲突こうつき川、東は海、西は田上たがみ村、たけ村、南は用水路を境になか村。谷山たにやま筋が通る。中世には荒田庄が成立していた。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では高一千三一七石余。「三州御治世要覧」によれば延享(一七四四―四八)頃の高一千九四一石余。

荒田村
あらたむら

[現在地名]兵庫区荒田町一―四丁目

兵庫津の町屋の周囲にあった田畑部分(地方)の北東に接し、天王谷てんのうだに川と石井いしい川との合流部付近から下流みなと川左岸の沖積平地に位置する。洪水被害を受けやすく、東部は段丘となっている。平安時代末期、付近には平氏一門の別荘があり、荒田には清盛の弟頼盛の別邸があった。「平家物語」巻四に「池中納言頼盛卿の山荘あらた」とみえ、治承四年(一一八〇)安芸厳島に参詣した高倉上皇は帰京の途中、四月五日に福原ふくはらに立寄り「あ(ら)た」にある頼盛の家で笠懸けなどを楽しんでいる(高倉院厳島御幸記)

荒田村
あらたむら

[現在地名]臼杵市前田まえだ 荒田・きたくち

門前もんぜ村の西、臼杵川の下流左岸に位置し、西は家野いえの村。新田とも記した(慶長一一年惣御高頭御帳)。慶長二年(一五九七)臼杵庄検地帳(渡辺家文書)に村名がみえ高一七七石余、うち田方八四石余・畑方九三石余、村位は下。同六年初代藩主稲葉貞通は当村を伊勢神宮に寄進している(伊勢領目録之覚「稲葉家譜」臼杵藩政史料)。同一一年の惣御高頭御帳でも同高で伊勢神宮領であったが、村高のうち八八石余は稲葉通孝領であった。また同帳には村役人に甚右衛門・又左衛門・藤左衛門が記される。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によると本高一二〇石余・出来高五七石余、柴山があった。

荒田村
あらたむら

[現在地名]勝山町荒田

新庄しんじよう川と月田つきだ川の合流点西方の河岸段丘上の村。四〇〇メートル級の山に囲まれ、北は神代こうじろ村、東は江川えがわ村。新庄川に沿う出雲往来の枝道と、月田川に沿う東城とうじよう往来の分岐点。中世末期、広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)御師の檀那場で、文明一四年(一四八二)八月一〇日の檀那村書(肥塚家文書)に「高田内あら田之三郎大夫」、年未詳の檀那村書(同文書)に「あらた村ニ四人」「あら田村一ゑん 又竹内与左衛門殿 上源二郎殿 松尾神左衛門殿其外 残衆一ゑん知行也」などとみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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