蒔田 広孝(読み)マイタ ヒロタカ

20世紀日本人名事典 「蒔田 広孝」の解説

蒔田 広孝
マイタ ヒロタカ

江戸時代末期・明治期の大名,華族 総社町長。



生年
嘉永2年2月4日(1849年)

没年
大正7(1918)年3月24日

出生地
江戸

出身地
岡山県

経歴
御書院番を務める旗本・蒔田家に生まれる。安政4年(1857年)備中国井手を知行する寄合の蒔田広運の養嗣子となり、安政5年(1858年)家督を相続し、7千石を領した。文久3年(1863年)以来、羽田や江戸市中の警護に功があり、同年1万石に格上げされ、知行地の備中国井手から同国浅尾に陣屋を移し、浅尾藩を立てた。元治1年(1864年)京都見廻役を命ぜられ、同年7月の禁門の変では長州藩兵の追討に活躍。しかし、そのために慶応2年(1866年)には長州藩奇兵隊の報復を受け、浅尾陣屋を襲撃された。慶応4年(1868年)新政府側の追求を避けるべく、備中松山藩攻撃に参加し、にわかに勤王派に協力。維新後、浅尾藩知事となるが、廃藩置県で東京に移住して華族に列し、子爵を授けられた。その後、浅尾に戻り、浅尾村長を経て明治41年初代総社町長に選ばれた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「蒔田 広孝」の解説

蒔田広孝 まいた-ひろたか

1849-1918 幕末-明治時代の大名,華族。
嘉永(かえい)2年2月4日生まれ。書院番蒔田広胖の長男。寄合蒔田広運(ひろゆき)の養子となり,安政5年家督をつぐ。文久3年1万石への高直りがゆるされ,備中(びっちゅう)(岡山県)浅尾藩主となる。子爵。明治41年初代総社町長。大正7年3月24日死去。70歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例