藤原佐理(読み)フジワラノスケマサ

デジタル大辞泉 「藤原佐理」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐すけまさ〔ふぢはら‐〕【藤原佐理】

[944~998]平安中期の公卿・書家。名は「さり」とも。実頼の孫。三蹟の一人で、その筆跡を佐跡という。遺墨「詩懐紙」「恩命帖」「離洛帖」など。

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精選版 日本国語大辞典 「藤原佐理」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐すけまさ【藤原佐理】

  1. 平安中期の公卿・書家。右近少将、参議、大宰大弐などを歴任。正三位に至る。小野道風藤原行成とともに三蹟の一人。上代様書道の創始者道風を受け継ぎ、さらに発展させた。能書として最大の名誉である悠紀主基(ゆきすき)屏風色紙形の揮毫(きごう)を三度拝命。真跡として「詩懐紙」「離洛帖」などがある。天慶七~長徳四年(九四四‐九九八

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原佐理」の意味・わかりやすい解説

藤原佐理 (ふじわらのすけまさ)
生没年:944-998(天慶7-長徳4)

平安中期の公卿,書家。摂政・太政大臣実頼の孫。夭折した左近衛少将敦敏の子。961年(応和1)従五位下に叙し,侍従,右近衛少将,五位蔵人,左右中弁などを経て,978年(天元1)参議,以後兵部卿,大宰大弐,皇后宮権大夫などとなり正三位にのぼった。性格が奔放で,宇佐八幡宮との紛争で大弐を免ぜられた。
執筆者: 佐理三蹟の一人に数えられる平安時代の書家として,〈さり〉とも通称される。その書跡を〈佐蹟〉という。書芸は生前から名高く,一条天皇も大宰府に赴任していた佐理にはるばると手本を求め,また入宋する僧侶に託して日本書芸の代表として佐理の筆跡をおくったという。性質は怠け者(懈怠者)とか,だらしない(如泥人)とかいわれたが(《大鏡》),一種の芸術家肌であったかもしれない。三蹟の一人,藤原行成の書が悪くすると卑俗の気を生ずるのに比べ,佐理の書は気骨をみせたところがある。作品として信じてよいものは書状が多く,《離洛帖》(畠山美術館),《恩命帖》(宮内庁),《国申文帖》(書芸文化院),《頭弁帖》《去夏帖》などである。その他,書芸上の〈作品〉といえるもので確実なものは,969年(安和2)祖父太政大臣藤原実頼の宴で書した《詩懐紙》1点があるだけである。後世古筆家などが佐理と鑑定した草がなは少なくないが,おおむね信じられない。大宰大弐としての任地から都へ帰る途中,海が荒れたが,それは伊予の三島大明神が佐理をひきとめるためで,扁額を揮毫(きごう)すると海がないだという逸話がある。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原佐理」の意味・わかりやすい解説

藤原佐理(ふじわらのすけまさ)
ふじわらのすけまさ
(944―998)

平安中期の公卿(くぎょう)で、能書。「~さり」ともいう。小野道風、藤原行成(ゆきなり)とともに「三蹟(さんせき)」として書道史上に名をとどめる。その遺墨は「佐跡(させき)」とよばれて尊重された。摂関家の名門の一系に生まれたが、4歳で父に死別。関白太政大臣(だいじょうだいじん)を極めた祖父の小野宮実頼(おののみやさねより)に育てられ、その権勢後ろ盾に18歳の961年(応和1)、68歳の小野道風と同日に昇殿を許された。やがて、能書としての頭角を現し、970年(天禄1)円融(えんゆう)天皇の大嘗会(だいじょうえ)において、悠紀主基屏風(ゆきすきびょうぶ)の色紙形(しきしがた)の筆者に抜擢(ばってき)された。能書として最高の栄誉に価するこの仕事を佐理は生涯に三度までも務め、「日本第一の御手」(大鏡)といわれた。参議・従三位(じゅさんみ)に上り、991年(正暦2)には大宰大弐(だざいのだいに)となって任地に下り、翌年正三位に昇進したが、995年(長徳1)に宇佐八幡宮(はちまんぐう)との間に起こした不祥事により、その任を解かれて帰京。不遇のうちに長徳(ちょうとく)4年7月25日、55歳で世を去った。当時の記録によれば、役人に不向きな、芸術家タイプの人物であったらしい。遺墨として、道風の書風の影響が色濃い、26歳の筆になる『詩懐紙』(国宝、徳島・松平家)のほか、能書佐理の面目を発揮した『離洛帖(りらくじょう)』(国宝、東京・畠山(はたけやま)記念館)や『恩命帖(おんめいじょう)』(宮内庁)などの書状が数通現存する。

[松原 茂]

『小松茂美著『平安朝伝来の三蹟と白氏文集の研究』(1965・墨水書房)』


藤原佐理(ふじわらのさり)
ふじわらのさり

藤原佐理

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百科事典マイペディア 「藤原佐理」の意味・わかりやすい解説

藤原佐理【ふじわらのすけまさ】

平安時代の書家,三蹟の一人。〈さり〉とも。参議,大宰大弐等を歴任,正3位まで上った。王羲之小野道風の書をもとに,味わい豊かな書風を確立。詩懐紙のほか《離洛帖(りらくじょう)》等の消息がある。
→関連項目離洛帖

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朝日日本歴史人物事典 「藤原佐理」の解説

藤原佐理

没年:長徳4.7(998)
生年:天慶7(944)
平安中期の公卿,能書。小野道風,藤原行成と共に「三跡」のひとりで,「さり」とも称される。左少将敦敏の子。4歳で父と死別し,祖父の実頼に養育される。蔵人,左少弁などを歴任,天元1(978)年に参議となり公卿に列した。次いで讃岐国司,あるいは大宰大弐などに任ぜられたが,正暦5(994)年宇佐八幡宮の神人と乱闘する事件により,翌年に大宰職を停止,京都に召還された。2年後に再度復帰して朝参を許され,当時正三位・兵部卿に在任したが,翌年没した。円融・花山・一条の3代の天皇の大嘗会において,悠紀主基屏風の色紙形の筆者に選ばれたほか,数々の栄誉ある執筆を遂げている。現存遺品では,26歳の筆になる「詩懐紙」には小野道風の書風の影響が窺われるが,「国申文帖(女車帖)」「離洛帖」「頭弁帖」など中年から晩年にかけての書状は,いずれも佐理独自の奔放闊達なすぐれた書風を樹立した見事なものである。

(古谷稔)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原佐理」の解説

藤原佐理
ふじわらのすけまさ

944~998.7.-

名は「さり」とも。平安中期の貴族。能書家で三蹟の1人。父敦敏は早世し,祖父実頼に後見された。961年(応和元)従五位下となり,右近衛権少将・蔵人・右中弁・参議などを歴任。984年(永観2)新内裏の額を書き従三位に昇った。円融・花山・一条各天皇の大嘗会(だいじょうえ)の屏風色紙形を書く。990年(正暦元)兵部卿となったが,翌年辞し大宰大弐(だいに)として赴任。992年正三位となるが,宇佐八幡宮の神人(じにん)との乱闘事件から995年(長徳元)解任され京に召還された。のち許され,兵部卿に再任したが,まもなく没した。書に名高く,「栄花物語」に「手書きのすけまさ」とみえる。「詩懐紙」(国宝)「離洛帖(りらくじょう)」(国宝)などの書がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原佐理」の意味・わかりやすい解説

藤原佐理
ふじわらのすけまさ

[生]天慶7(944)
[没]長徳4(998).12.15.
平安時代中期の廷臣,書家。「さり」とも呼ばれる。摂政太政大臣実頼の孫で,左少将敦敏の長子。正三位兵部卿。小野道風,藤原行成とともに三跡と称賛された。伊予大三島の大山祇神社,京都六波羅蜜寺などの扁額を書き,関白藤原道隆の東三条第の障子に和歌を書いた記録が知られる。作品には『詩懐紙』 (969,国宝) ,『恩命帖』 (宮内庁三の丸尚蔵館) ,『離洛帖』 (991,国宝) ,『頭弁帖』 (992) などがあり,『綾地切 (あやじぎれ) 』『筋切』など伝称作品も多い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原佐理」の解説

藤原佐理 ふじわらの-すけまさ

944-998 平安時代中期の公卿(くぎょう),書家。
天慶(てんぎょう)7年生まれ。藤原敦敏の長男。祖父実頼(さねより)に養育される。参議をへて大宰大弐(だざいのだいに)となるが,不祥事で解任。没時は正三位,兵部卿。書は小野道風,藤原行成とともに三蹟(さんせき)にかぞえられ,円融天皇以下3代の大嘗会(だいじょうえ)で屏風色紙形の筆者となった。長徳4年7月死去。55歳。遺墨に「詩懐紙」「離洛帖」など。

藤原佐理 ふじわらの-さり

ふじわらの-すけまさ

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原佐理」の解説

藤原佐理
ふじわらのさり

944〜998
平安中期の公卿・能書家。三蹟の一人
名は「すけまさ」ともいう。関白実頼の孫。小野道風の和様をさらに発展させた。その筆跡を佐蹟 (させき) と呼び,『詩懐紙 (しかいし) 』『離洛帖 (りらくじよう) 』などが現存する。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原佐理の言及

【藤原佐理】より

…平安中期の公卿,書家。摂政・太政大臣実頼の孫。夭折した左近衛少将敦敏の子。961年(応和1)従五位下に叙し,侍従,右近衛少将,五位蔵人,左右中弁などを経て,978年(天元1)参議,以後兵部卿,大宰大弐,皇后宮権大夫などとなり正三位にのぼった。性格が奔放で,宇佐八幡宮との紛争で大弐を免ぜられた。【目崎 徳衛】 佐理は三蹟の一人に数えられる平安時代の書家として,〈さり〉とも通称される。その書跡を〈佐蹟〉という。…

【三蹟】より

…平安中期の能書家,小野道風藤原佐理(すけまさ),藤原行成(ゆきなり)の3人,またその書をさす。中国や日本では名数が好まれたが,書道のうえでも平安初期の嵯峨天皇,橘逸勢(はやなり),空海が〈三筆〉と称され,〈三蹟〉はこれに対応する。…

※「藤原佐理」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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