家にこもって謹慎させる刑罰の一種。中世の公家・武家では謹慎あるいは不満の表明として蟄居することもあり,また刑としても行われた。江戸時代にも公家・武家等に例外的な刑罰として行われた。岩倉具視は1862年(文久2)和宮降嫁を推進したことから尊攘派の糾弾するところとなり,辞官蟄居を命ぜられた。1792年(寛政4)《海国兵談》を著した林子平は兄嘉膳方に引き渡し在所において蟄居を命ぜられた。その他著名な事件としては,1839年(天保10)蛮社の獄に連座した渡辺崋山は主人家来に引き渡し在所において蟄居を命ぜられ,54年(安政1)佐久間象山,吉田松陰などもこの刑をうけた。59年水戸藩主徳川斉昭は将軍家定の継嗣をめぐって大老井伊直弼と対立し永蟄居を命ぜられたが,翌年危篤のゆえをもって免ぜられた。76年の華族懲戒法は蟄居の懲戒をおいたが,85年には除族と改められ,蟄居の制はなくなった。
執筆者:牧 英正
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自宅の一室に謹慎させる刑。江戸時代において、士人以上について行われたが、江戸幕府の公事方御定書(くじかたおさだめがき)にはこの刑は規定していない。謹慎・閉門の刑が門を閉じて出入りを禁じたのに対し、蟄居は閉門のうえ一室に籠(こも)ることを命じた。1792年(寛政4)に仙台藩士林子平は奇怪異説等の著述をしたというので、兄嘉膳方に引き渡され、在所において蟄居を命ぜられ、1839年(天保10)には渡辺崋山(かざん)が蛮社の獄に座して捕らわれ、国元の田原に蟄居を命ぜられている。
[石井良助]
中世~近世の武士や公家に科せられた刑罰。謹慎のため自宅にこもること。通常は領主などから命じられて謹慎することをさしたが,みずから自宅で謹慎して刑の宣告を待つ場合や不平不満がつのり進んで自宅に閉じこもることも称した。中世では,他の刑が付加される場合が多く,近世では,蟄居・蟄居隠居(押隠居)・永蟄居などの種類があった。江戸後期に林子平や渡辺崋山らが蟄居に,徳川斉昭が永蟄居に処せられた事例が有名。1870年(明治3)の新律綱領の頒布により行われなくなった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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