用例の古いものは「さいいき」と読んだかも知れないが、便宜上本項にまとめた。「書言字考節用集‐二」には「西域(サイイキ)」とある。
中国本土の西方に位置する諸外国を総称した歴史的用語。西方地域という意味である。類似語として西夷(せいい)、西戎(せいじゅう)、西蕃(せいばん)という語があるが、これらはチベット人を含む西方諸民族の意であり、西域は地域名である。
[佐口 透]
「西域」の語は『史記』にはみえず、班固の『漢書』を初見とする。『漢書』巻96に「西域伝」があり、ここでは西域の範囲を「南北に大山あり、中央に河あり、東西六千余里、南北一千余里」としている。この記述は、北の天山山脈と南の崑崙(こんろん)山脈(アルティン・タグともいう)との間に横たわるタリム川の盆地をさしたものであるから、東トルキスタンにあたり、いまの新疆(しんきょう)ウイグル自治区の天山山脈以南の地域とほぼ合致し、東は敦煌(とんこう)の西界から、西は葱嶺(そうれい)(パミール)に至る地域である。西域の中央部にはタクリマカン砂漠があり、主として山麓(さんろく)にオアシス定住社会が発達した。しかし、中国正史の西域伝に収載されているのは前述の地域のみならず、さらにはパミールの西方(西トルキスタン、イラン)や南方(アフガニスタン、カシミール、インドなど)の諸国も記載されているので、これらの諸国は広義の西域とみなすことができる。
古代に関しては『漢書』のみならず、『後漢(ごかん)書』『北魏(ほくぎ)書』『隋(ずい)書』『旧唐(くとう)書』『新唐書』などの「西域伝」、東晋(とうしん)の仏僧道安の『釈氏西域記』、隋代の『西域図記』、唐の仏僧玄奘(げんじょう)の『大唐西域記(さいいきき)』をみると、パミール以西、以南の地方も西域のなかに加えられている。西域とは、中国西部に位置するタリム盆地と、この盆地を通過する交通路(西域の南道と北道)によって到達しうる地方をあわせた場合が多いことがわかる。前者は本来の、狭義の西域であり、「西域三十六国」などとよばれる地域で、後者は広義の西域であるといえる。しかし、東洋史学の立場では狭義の西域を、または西トルキスタンを含めた東・西トルキスタンを西域史の対象とするのが普通である。
[佐口 透]
10世紀以降になると、『宋(そう)史』には西域伝はなくて「外国伝」があり、このなかに西域諸国の記事があり、『遼(りょう)史』『金史』には西域伝はなく、「外国伝」のなかに若干の記事がある。モンゴル人の建てた元朝の『元史』にも西域伝はなく、この地域は「西北地」とよばれている。遼、金、元の三朝は北方民族の建てた王朝であったので、西域という地域概念は採用されなかったのである。純粋に中国王朝であった明(みん)朝では、『明実録』に西域の用語があり、『明史』に「西域伝」(ティームール朝、西アジアの一部を含む)があり、そのほか、『使西域記』『西域番国志』『西域土地人物略』など、西域名を冠した歴史地理書がある。明代の西域(東・西トルキスタン)は、中国の実効的な影響力の及ぶことがもっとも薄弱な時代であった。
満洲族出身の清(しん)朝は、1760年より西域に支配権を及ぼしたが、タリム盆地の定住社会はなお西域と公称され、『西域同文志』『西域図志』『西域聞見録』『西域水道記』などの書がある。清朝の西域はタリム盆地、つまり狭義の西域をさしており、同時に天山南路の地とよばれた。しかし、清朝ではこの西域がイスラム教徒トルコ人の住地であったことから、回部(かいぶ)、回疆(かいきょう)(回はイスラムの意)とよぶことが多かった。これは清朝時代のみの呼称である。また、清朝では天山南・北路の地を「新疆」、つまり「新しく開拓された地方」ともよんだので、西域回部もこの新疆という範囲に入る。1885年に新疆省制が敷かれてから、西域、回部、回疆という用語はしだいに用いられなくなった。
日本では白鳥庫吉(しらとりくらきち)が西域史研究を開拓し、数々の業績を出してから、東洋史学のなかに西域史という専門分野が確立し、古代の西域史研究から、しだいに中世、近世へと研究が発展した。1940年代から東トルキスタン史、中央アジア史とよばれるようになったが、歴史的な西域史学の伝統はなお生き続けている。
[佐口 透]
『白鳥庫吉著『西域史研究』上下(1981・岩波書店)』▽『東山健吾著『シルクロードの足跡――人物と遺跡からみる西域史』(2004・日本放送出版協会)』▽『羽田亨著『西域文明史概論・西域文化史』(平凡社・東洋文庫)』
中国人が中国の西方に存在する諸地域を指して用いた総称。中国の〈西方の地域〉の意。〈せいいき〉とも呼ばれる。この語に含まれる地理的範囲は,時代時代の中国人の西方に関する知識の度合に応じて変化した。西域の語は《史記》には現れず,《漢書》西域伝を初見とする。《漢書》は西域を玉門・陽関以西,葱嶺(パミール)以東の東トルキスタンの諸地域と定義する一方,大宛国,大月氏国,罽賓(けいひん)国,安息国など,パミール以西の西トルキスタン,アフガニスタン,イランの諸国に関する記述をもその〈西域伝〉の中に収録し,定義と実際の記述内容とは必ずしも一致していない。つづく《後漢書》西域伝には,より西方の条支国(シリア),大秦国(ローマ)に関する記述に加え,天竺国などインドに関する記述すらも含まれる。また時代はもっと下って《明史》西域伝のごとくチベットをも含ませる場合もある。要するに,この語には大きく分けて狭広2義の用法があり,狭義ではパミール以東の東トルキスタンの諸地域を,広義では東・西トルキスタン,西アジア,インド,チベット,ヨーロッパ東部を含む中国西方の広大な地域を指す。日本では,前者の用法をやや拡大して,東・西トルキスタンないし中央アジアの意味で用いられる場合が多い。中国では,1884年(光緒10)の新疆省の成立以後,東トルキスタンを従来の〈西域〉と並んで〈新疆〉と呼ぶ場合が多い。
歴代の中国王朝にとって西域はまず第1に匈奴に始まる北方遊牧民の活動を牽制するための軍略上の要地であった。このため歴代王朝は,李広利の大宛遠征のごとくしばしば遠征軍を送り,漢代の西域都護府,唐代の安西都護府(都護府)のごとき軍事基地を設けてその〈西域経営〉に努めた。第2に西域は,陸上交通路(シルクロード)を利用した中国と西方諸国との経済的・文化的交流のための要地であった。このため,中国商人たちが中国の物産を携えて西方に進出する(西域貿易)一方,〈西胡〉などと呼ばれた西方諸国の商人たちも〈朝貢〉という形をとって中国に来往し莫大な利益をあげた。彼らは同時に,宗教,美術,物産などの西方の文物を中国にもたらし,中国文化の多様化・国際化に貢献した。
→シルクロード →中央アジア
執筆者:間野 英二
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「せいいき」ともいう。中国人がその西方地域を総称した言葉。その範囲は各時代の西方に関する地理知識や政策状況に応じて一定しない。漢代ではタリム盆地のオアシス都市国家群を西域36国と総称した。広義には中央アジア,西アジア全域,ときにはインド,エジプトも含める。中国王朝にとって,西方との通商上,北方遊牧民に対する軍略上,西域の持つ意義は重要であり,漢では西域都護府,唐では北庭都護府,安西都護府によって西域を経営した。19世紀末以降の中央アジア探検は,多くの資料を発見し,西域文明の様相が解明されつつある。
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…この語に含まれる地理的範囲は,時代時代の中国人の西方に関する知識の度合に応じて変化した。西域の語は《史記》には現れず,《漢書》西域伝を初見とする。《漢書》は西域を玉門・陽関以西,葱嶺(パミール)以東の東トルキスタンの諸地域と定義する一方,大宛国,大月氏国,罽賓(けいひん)国,安息国など,パミール以西の西トルキスタン,アフガニスタン,イランの諸国に関する記述をもその〈西域伝〉の中に収録し,定義と実際の記述内容とは必ずしも一致していない。…
※「西域」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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