本来は仏法の法義を談ずることで,ディスカッションであったものが,一般民衆に説法する意味になり,法談とも文談ともよばれた。法義の論談講義の場所は談義所または檀林とよばれたが,説教談義ははじめ法会の会座でおこなわれた。法然の円頓戒談義や東大寺の法華義疏談義は,それぞれの法会にちなんだ談義であった。しかし説経が,経典の内容を説くことから興味本位の譬喩談を節をつけて語るようになったのとおなじく,談義も娯楽本位になっていった。とくに浄土教関係の談義僧が多くなり,浄土真宗本願寺3世覚如宗昭の長子存覚は多くの談義本を書いたといわれる。談義僧は夜談義,辻談義,門談義をおこなうようになり,近世には,信仰から離れた人情談などを語る不浄説法を禁止する法度が出されたほどである。
執筆者:五来 重 談義所は中世の末期に全国各地に設けられたが,江戸時代に入ると真宗などでは芸能的な節談(ふしだん)説教が盛んに口演されたので,談義所(説教所)は娯楽の殿堂と化した一面がある。談義僧は説教者ともよばれ,仏教の教義を興味深く話すことを旨としたが,噺家(はなしか)と同じような活動をして芸人化した。また民間には僧形をした在俗の芸人も現れ,仏教的な咄(はなし)をして喜捨を受けた。元禄(1688-1704)のころ京都の露の五郎兵衛は僧形で咄をして露休という僧名も用いたが,彼の辻咄は辻談義ともいわれた。寺院での談義は朝,昼,夜におこなわれていたが,しだいに娯楽化して話芸的要素を濃くした。宝永・正徳・享保(1704-36)のころには霊全(りようぜん)の辻談義・笑(わらい)談義が知られ,増穂残口や深井志道軒は談義僧から講釈師に転向した。さらに《当世下手談義》《当風辻談義》《下手談義聴聞集》など談義物または談義本とよばれる読みものが宝暦・明和・安永(1751-81)のころに次々と出版されたが,その著者たちの多くは談義僧の出身である。談義僧は説教の俗受けをねらって話芸を演じた。後世の寄席における高座・前座・中入り,師匠と弟子などの呼称は談義(説教)から出たものであり,説教と話芸の深いかかわりを示している。
→講談
執筆者:関山 和夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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