朝日日本歴史人物事典 「豊沢団平(2代)」の解説
豊沢団平(2代)
生年:文政11?(1828)
明治の文楽を代表する三味線の名人。本名加古仁兵衛。通称,清水町の師匠。播州(兵庫県)加古川の生まれ。天保10(1839)年,3代目豊沢広助に入門,力松を名乗り,丑之助を経て弘化1(1844)年,団平を襲名した。若くして才を認められ,安政3(1856)年には義太夫節中興の名人といわれた3代目竹本長門太夫の相三味線に抜擢され三味線の第一人者となった。明治に入ると2代目竹本越路太夫(のちの摂津大掾)を弾いて近代の名人に育て上げ,史上初の三味線紋下となったが,明治17(1884)年に事情があって文楽座から対抗的存在の彦六座に移り,ここでも3代目竹本大隅太夫を育成した。31年興行の初日に「花上野誉の石碑」の「志度寺の段」の演奏中に脳出血で倒れ,死去。明治の近代化の時流に応じて,古くからの曲を手直ししたり,「壺坂霊験記」「良弁杉由来」など明治期の代表的新作を作曲するなど義太夫節の改良に大きく貢献した。名人らしい逸話が多く,「壺坂」成立までの妻千賀との夫婦愛物語は川口松太郎により「浪花女」として劇化された。<参考文献>鴻池幸武『道八芸談』,茶谷半次郎「鶴沢叶聞書」(『文楽聞き書き』)
(山田庄一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報