豊田城跡(読み)とよだじようあと

日本歴史地名大系 「豊田城跡」の解説

豊田城跡
とよだじようあと

[現在地名]石下町本豊田

小貝こかい川西岸、本豊田もととよだ集落東南に位置。豊田氏居城。東の一部は河川敷・堤防敷となり、ほかは田畑宅地となっている。平将門没後この地方は常陸平氏本宗の支配するところとなったが、平繁幹(重幹)の第三子政幹(正幹・将基)は「常陸大掾伝記」に「正幹、石毛荒四郎、後号赤頭之四郎将軍、豊田ノ先祖也」とあり、石毛いしげ郷を本拠として豊田氏の祖となったと考えられる。常陸大掾系図には「政幹石毛荒四郎」、子は「幹重豊田太郎」とみえている。「東国闘戦見聞私記」「東国戦記実録」などによれば前九年の役の時、政幹は一族郎党を率いて源頼義・義家父子に従い陸奥地方を転戦、阿武隈川の先陣をはじめ数々の戦功を立てて凱旋。その恩賞として豊田郡を得て名を豊田四郎将基と改め、若宮戸わかみやどに館を構え豊田家二二代(二〇代説などあり)約五二〇年間の繁栄の礎を築く。

豊田城跡
とよだじようあと

[現在地名]天理市豊田町・豊井町

豊田の集落より八〇〇メートル東、標高一八〇メートル前後の山頂に所在。「大和志料」に「豊田塁山辺村大字豊田ニアリ、豊田氏ノ拠ル所ナリ」とあり、さらに「山辺郡誌」に「大字ヨリ約八町東ニアリ、城台ト云ヒ外濠今尚存セリ、豊田下野守之ニ拠ル、(中略)豊田頼英ト云和州山辺郡豊田村ニ在城知行高三千六百六十七石余ノ領主也」ともある。豊田氏は一五世紀前半より越智・古市両氏とともに活躍した。一五世紀中頃、豊田頼英は興福寺の官符衆徒となり、同紀末、筒井氏の傘下に入った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android