赤松義祐(読み)あかまつ・よしすけ

朝日日本歴史人物事典 「赤松義祐」の解説

赤松義祐

没年:応永28.9.26(1421.10.22)
生年:生年不詳
南北朝室町時代武将。則祐の子。出羽守。南北朝時代の末ごろ摂津国有馬守護に任ぜられ,有馬の名で呼ばれるようになった。室町幕府内においては将軍直臣として遇され,明徳3/元中9(1392)年8月に盛大に営まれた相国寺塔供養では,次兄時則と共に将軍足利義満の行列の後陣随兵を務めた。『看聞日記』によれば応永28(1421)年9月26日の朝,就寝中のところを家僕に襲われ孫と共に刺殺されたという。没年については「赤松諸家系図」による応永19年説や,落馬して死んだ「赤松出羽守」を義祐とする応永30年説もあるが,上述『看聞日記』によるのが妥当であろう。なお応永30年に死亡したのは嗣子の則友であったと思われる。義祐の子孫戦国時代に至るまで代々有馬郡守護に任ぜられ,ついには有馬を姓とした。<参考文献>今谷明『守護領国支配機構の研究

(榎原雅治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「赤松義祐」の解説

赤松義祐(2) あかまつ-よしすけ

1501-1576 戦国-織豊時代の武将。
文亀(ぶんき)元年生まれ。赤松晴政(はるまさ)の子。美作(みまさか)(岡山県)新庄山城主。備前(岡山県)天神山城主浦上宗景(むねかげ)とあらそい,織田信長とむすぼうとしたが,池田勝政(かつまさ),伊丹親興(いたみ-ちかおき)らが宗景をたすけたため,永禄(えいろく)12年城を追われた。天正(てんしょう)4年2月15日死去。76歳。

赤松義祐(1) あかまつ-よしすけ

?-? 南北朝-室町時代の武将。
赤松則祐(のりすけ)の子。明徳2=元中8年(1391)明徳の乱で兄たちが戦死したあと,摂津有馬郡(兵庫県)の守護となり,以後有馬氏を名のった。没年については応永19年(1412),28年,30年説がある。

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