朝日日本歴史人物事典 「赤松義祐」の解説
赤松義祐
生年:生年不詳
南北朝・室町時代の武将。則祐の子。出羽守。南北朝時代の末ごろ摂津国有馬郡守護に任ぜられ,有馬の名で呼ばれるようになった。室町幕府内においては将軍の直臣として遇され,明徳3/元中9(1392)年8月に盛大に営まれた相国寺塔供養では,次兄時則と共に将軍足利義満の行列の後陣随兵を務めた。『看聞日記』によれば応永28(1421)年9月26日の朝,就寝中のところを家僕に襲われ孫と共に刺殺されたという。没年については「赤松諸家系図」による応永19年説や,落馬して死んだ「赤松出羽守」を義祐とする応永30年説もあるが,上述『看聞日記』によるのが妥当であろう。なお応永30年に死亡したのは嗣子の則友であったと思われる。義祐の子孫は戦国時代に至るまで代々有馬郡守護に任ぜられ,ついには有馬を姓とした。<参考文献>今谷明『守護領国支配機構の研究』
(榎原雅治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報