日本大百科全書(ニッポニカ) 「軍隊教育」の意味・わかりやすい解説
軍隊教育
ぐんたいきょういく
軍隊を構成するそれぞれの軍人およびその組織体たる各種部隊などに対して実施される教育、訓練などの総称。最終的には軍隊の総合的戦闘能力を維持・向上させることを目的とするものであり、近代軍隊において、より組織的・体系的なものとなった。通常、各種の部隊とその構成員を練成する狭義の軍隊教育と、幹部の養成や専門的技能教育を目的とする学校教育とに区分することができ、さらには、こうした軍隊教育の一部の機能を、軍隊外の一般教育機関や種々の組織・団体が担っている場合もある。戦前期の日本社会はその典型的事例であろう。軍隊教育は、軍の戦闘能力に直接的な影響を与える重要な要素であるため、いずれの国の軍隊もこれを重視し、軍隊教育のための統轄機関を設置して指導・監督にあたらせているが、軍隊教育の様式・内容には、当該国の軍隊の歴史と伝統、当該国の政治体制のあり方や国家目標、生産力の水準や文化的・社会的特質などが色濃く反映しており一様でない。一般に近代軍隊には、広範な国民のなかから多数の兵士を徴集し、これに比較的短期間の教育を施す大衆軍と、職業的軍人を中心とする、よく訓練された精鋭軍との二つのタイプが存在するが、このいずれを採用するかによっても軍隊教育の内容は異なったものとなる。また近年は、兵器体系の変貌(へんぼう)が軍隊教育に大きな影響を与えている。すなわち、核兵器やミサイルの出現、通常兵器の飛躍的な質的改善、軍隊自体の機械化などに示されるように、兵器体系全体が最先端の科学技術に支えられたものとなっているため、軍人自身にも高度の専門技術教育が必要とされるに至り、軍隊教育は、いよいよその複雑さを増しているのである。今後、こうした傾向は、ますます加速されることとなろう。
なお、軍隊教育の目的は、狭義の軍事的能力の維持・向上にとどまるものではなく、軍人、とりわけ一般兵士を軍隊内秩序に服従させ、軍隊と国家に対する忠誠心を培養することをもう一つの重要な柱としている。市民革命以降の歴史のなかではぐくまれた民主主義的意識と、厳格な規律と命令‐服従関係によって支配されている軍隊内秩序とはつねに衝突する傾向を有しているため、そのような意識を身につけた一般国民を、軍隊内秩序のなかにいかにして組み入れてゆくかが軍隊教育の重要な課題とならざるをえないのである。戦前の日本軍隊の場合、こうした教育は精神教育とよばれ、きわめて重視された。一般的にいえば、軍隊教育は、市民社会のなかで培われてきた価値観を破壊し、あるいは変質させることによって、前記のような客観的要請にこたえてきたのである。また、軍隊教育の内容は政治的にも大きな意味を有している。市民社会の通念から隔絶し、極端な国家主義や軍国主義などを鼓吹するような軍隊教育が行われている場合には、その軍隊自体が特定の政治的傾向を強く帯び、政府や議会などの統制を離れて独自の政治的活動を展開し、ときにはクーデターという非常手段に訴えた歴史的事例も少なくない。政治の軍事に対する優位、政治による軍事の統制を原則化したシビリアン・コントロールの理念を実現してゆくうえで、軍隊教育の内容を政府や議会、さらには国民がいかにして統制するのかという問題は、依然として重要な現実的意味をもっているものといえるであろう。
[吉田 裕]
戦前日本の軍隊教育
成立当初の明治政府は御親兵や鎮台兵以外には固有の軍事力を有せず、それらの軍事力も各藩の藩兵を基礎にしていたため、装備や訓練の統一性を甚だしく欠いていた。このため、陸軍の場合はフランス(のちにプロイセン)に、海軍の場合はイギリスに倣って兵制の統一が強力に進められた。こうした事情のため、軍隊教育の分野にあっても、当初は独自の教育体系や理念がかならずしも存在したわけではなく、典範令の類もフランスなどの模倣にすぎないものが少なくなかったのである。しかし、中央政府直轄の軍事力の建設が進むにつれて軍隊教育の体系もしだいに整備されてゆく。陸軍の場合、1887年(明治20)には軍隊教育の中央統轄機関として、「陸軍軍隊練成ノ斉一ヲ企画」する監軍部が設置され、続いて98年には監軍部が廃止されて新たに教育総監部が設置される。この段階では、教育総監部の長官たる教育総監は、陸軍大臣の管轄に属していた。さらに1900年(明治33)には、教育総監部条例の改正によって教育総監は天皇に直隷することとなり、陸軍大臣、参謀総長と鼎立(ていりつ)して陸軍三長官と称せられるようになるのである。以後、敗戦に至るまでこの体制が続いた。
海軍の場合には、1900年に、軍隊教育の統轄機関たる教育本部が海軍省に新設され、さらに23年(大正12)には教育本部が廃止されて新たに教育局が設置されている。陸軍の場合、教育の中央統轄機関が天皇に直隷していたのに対し、海軍ではこれが海軍大臣の管轄下に置かれている点が異なっていた。
他方、こうした機構整備と相まって、軍隊教育の内容自体も、しだいに日本独自のイデオロギーに支えられたものとなってゆく。1882年(明治15)には「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」(軍人勅諭)が公布され、軍隊教育の基本精神が確立される。すなわち、この勅諭は、軍隊に対する指揮・統率の権限が天皇自身に属することを明らかにし、軍人を天皇の「股肱(ここう)」として位置づけ、さらに、上官の命令は天皇自身の命令であるとして、天皇の権威により軍隊内の秩序を維持・強化しようとする方向性を明確にしたのである。以後、天皇に対する忠誠心の培養が日本の軍隊教育の要(かなめ)をなすに至る。とくに、満州事変から日中戦争、太平洋戦争にかけての対外戦争の拡大過程において、こうした傾向はますます助長され、「天皇の軍隊」たることが異常に強調されてゆくこととなる。1934年(昭和9)には「皇軍意識ヲ徹底セシム」という立場から軍隊内務書が改正され、41年には「皇軍道義の高揚」を図るため軍人勅諭の戦場版ともいうべき「戦陣訓」が布達されている。
さらに軍隊教育の面では、日露戦争後の時期が一つの大きな画期となった。とりわけ陸軍では、1908年(明治41)から14年(大正3)にかけて各種の典範令が抜本的に改正され、日本軍隊独自のイデオロギーが体系的に確立されるのである。その特徴は、「攻撃精神」「必勝ノ信念」などの精神主義の著しい強調、「外形ノ画一ニ依(よ)リ形而上(けいじじょう)ノ斉一ヲ求ムル」画一的形式主義、軍隊内の支配‐被支配関係を家族関係になぞらえる家族主義的イデオロギーなどである。
また、軍隊教育のなかの学校教育については、陸海軍ともに各種の軍学校が設置され、必要な教育を施していた。陸軍の場合、1872年(明治5)に、将校となるべき者に所要の教育を施す陸軍幼年学校が、74年には、将校養成のための陸軍士官学校が設立されており、さらに83年には、将校に高等用兵教育を施すことなどを目的にして陸軍大学校が開校されている。陸軍将校中、幼年学校→士官学校→陸軍大学校という教育コースを経た者は、エリート将校として陸軍省、参謀本部の要職を占め、しだいに軍の実権を握っていった。また、日中戦争以降の軍備大拡張に伴い、大量の下級将校が必要になってくると、その養成のために予備士官学校が設置されている。下士官の養成のためには、明治初年に教導団が設けられ、その後、99年には廃止されていたが、昭和期に入ると新たに教導学校が設置されている。そのほか陸軍には、各種の専門的技能教育のために、歩兵学校、野戦重砲兵学校、重砲兵学校、工兵学校、戸山学校(体操、剣術教育)、通信学校、自動車学校、飛行学校、経理学校、工科学校、軍医学校、獣医学校、憲兵練習所などがあった。他方、海軍の場合、1876年(明治9)に将校養成のため海軍兵学校が設立され、88年には海軍大学校が設立されている。陸軍大学校と同様、海軍大学校はエリート将校の養成機関であり、その卒業者が海軍の要職を占めた。そのほか海軍の専門的技能教育のための学校としては機関学校、軍医学校、砲術学校、水雷学校、通信学校、潜水学校、工機学校などがある。
なお、日本の軍隊教育の場合、広義の軍隊教育の機能の一部が、軍隊外の一般社会の諸機関、諸団体によって担われ、いわば社会全体が軍隊内教育に先だつ予備的教育の場として再編成されていたところに著しい特徴があった。学校教育の面では、1889年(明治22)の徴兵令改正によって、師範学校の卒業者で小学校の教職にある者には6週間の軍隊生活が義務づけられ、この六週間現役制度をてこに学校教育の軍国主義化が推進された。この制度はのちに1年現役制、短期現役制となる。さらに、1903年(明治36)には小学校令の改正により国定教科書制度が確立し、国定教科書を通じて軍事的価値観が生徒に注入されるようになるのである。また、25年(大正14)には陸軍現役将校学校配属令が公布され、中等学校以上の各学校における軍事教練が開始されている。学校教育以外の分野でも、26年には、義務教育終了後の16歳から20歳までの青年を対象とし、これに軍国主義教育を実施する青年訓練所が設置されている。この青年訓練所は、35年(昭和10)に実業補習学校と合併して青年学校となり、39年には日中戦争の長期化に伴い、男子の青年学校義務制が実施に移されるのである。こうした一連の措置によって初めて、軍隊内における狭義の軍隊教育がその機能を発揮し、厳格な軍紀が維持されたということができよう。
[吉田 裕]