日本大百科全書(ニッポニカ) 「近衛文麿内閣」の意味・わかりやすい解説
近衛文麿内閣
このえふみまろないかく
昭和期に近衛文麿を首班として組織された第一~三次の内閣。
[木坂順一郎]
第一次
(1937.6.4~1939.1.5 昭和12~14)
林銑十郎(はやしせんじゅうろう)内閣が総選挙に大敗して総辞職した後を受け、支配層内部の矛盾解決と準戦時体制の強化を期待され、各方面の与望を担って成立した。しかし1937年7月7日盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が勃発(ぼっぱつ)、政府は不拡大方針をとったが、戦争拡大を主張する陸軍の統制派に押し切られ、戦争は日中間の全面戦争となった。これに伴い政府は、内閣参議制度、企画院、大本営および大本営政府連絡会議、厚生省などの新設、国民精神総動員運動の開始、国家総動員法の制定、戦時統制経済の推進などにより国家総力戦体制の樹立を目ざした。1938年5月26日には内閣改造を断行して局面打開を図ったが、新登場の宇垣一成(うがきかずしげ)外相は興亜院設置問題で軍部や右翼から攻撃されて辞任し、国家総動員法発動問題では革新官僚、軍部と財界とが対立、国務(政府)と統帥(軍部)との対立など、支配層内部の矛盾は解決されなかった。外交面ではトラウトマン駐華ドイツ大使を通じる和平工作に失敗し、1938年1月16日「国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」と声明、平和への道を自ら閉ざした。さらに、11月3日には東亜新秩序建設を声明し、12月22日近衛三原則(善隣友好、共同防共、経済提携)を発表、汪兆銘(おうちょうめい/ワンチャオミン)政権擁立工作を進めたため、平和への道はさらに遠のいた。日独軍事同盟締結を主張する陸軍と対立し、人心一新を理由に総辞職。後継内閣は平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)によって組織された。
[木坂順一郎]
第二次
(1940.7.22~1941.7.18 昭和15~16)
米内光政(よないみつまさ)内閣の後を受けて成立。基本国策要綱の線に沿って新体制運動を推進し、1940年10月12日大政翼賛会を結成した。これと並行して部落会、町内会、隣組を整備し、大日本産業報国会、大日本青少年団などの官製国民運動団体の結成を推進し、日本ファシズムの国民支配組織をつくり、さらに1941年3月7日国防保安法を公布し、3月10日治安維持法を改正して予防拘禁制度を新設した。軍事・外交面では、1940年9月23日北部仏印(ベトナム)進駐を強行して武力南進を明示、9月27日日独伊三国同盟を締結して枢軸強化を断行したため、米英との対立を深めた。1941年4月13日、北守南進のため日ソ中立条約を締結するとともに、4月16日から日米交渉を開始したが、松岡洋右(まつおかようすけ)外相の反対にあい、松岡更迭(こうてつ)のため総辞職した。
[木坂順一郎]
第三次
(1941.7.18~1941.10.18 昭和16)
外相に豊田貞次郎(とよだていじろう)を据え、日米交渉の成立を図ったが、1941年7月28日の南部仏印進駐強行によって日本と米英・オランダとの関係は決定的に悪化した。そして9月6日の御前会議では、日米交渉は継続するが、10月上旬になっても日本の要求が通らなければ「直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」との帝国国策遂行要領が決定された。しかし日米交渉は中国撤兵問題をめぐって難航し、東条英機(とうじょうひでき)陸相の強硬な交渉打切り要求のため閣内不統一となり、総辞職した。後継内閣は東条陸相によって組織された。
[木坂順一郎]
『矢部貞治著『近衛文麿』上下(1951、52・近衛文麿伝記編纂刊行会)』▽『林茂・辻清明編『日本内閣史録4』(1982・第一法規出版)』