…明治の修養主義から大正の教養主義の時代へと,いけばなの自由花もまた人間の教義としてのいけばなを問い,その確立を志した。この運動のなかから昭和初年にはより先鋭的に芸術としてのいけばな確立をめざしたのは,重森三玲,勅使河原蒼風,中山文甫たちによる〈新興いけばな宣言〉であったが,昭和10年代からの戦争突入によってこの運動も挫折してしまった。戦後の急激ないけばなの近代化は,勅使河原蒼風,中山文甫,小原豊雲たちによって展開され,使用する素材の領域を拡大して鉄や石や鳥の羽根,貝などの無機物までを含めていけばなの造形活動を行った。…
…昭和に入ってからは,二つの目立った動きがみられる。一つは寺院に多くの枯山水をつくった重森三玲であり,自然主義的な庭園を批判して象徴的な庭園を打ち立てた。いま一つは昭和の初めころ飯田十基が推進した雑木の庭で,そののち小形研三に継がれ,都市の人工化とともに急成長している。…
※「重森三玲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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