野洲庄(読み)やすのしよう

日本歴史地名大系 「野洲庄」の解説

野洲庄
やすのしよう

野洲川下流域に位置していたとみられる庄園。寛喜三年(一二三一)一〇月、伊勢勅使役が賦課された庄園のうちに京法花きようほつけ寺領野洲南庄、尊勝そんしよう(跡地は現京都市左京区)領野洲北雑役免、大和法隆寺領野洲南庄など、同役免除の地として園城おんじよう寺領野洲南北庄の名がみえており(「民経記」同年同月九日条)、鎌倉期までに複数の領主に分割されていた。

庄名の初見は治安三年(一〇二三)九月二三日の官宣旨案(御府文書)で、奈良大安寺ふち庄とともに舒明・天武・聖武天皇の三代勅施入と伝える。国司の収公や郡司百姓の私領化に苦しみ、地子未納が続いたが、大安寺造営に際して国司収公・臨時雑役免除の官省符庄となった。一一世紀中頃には免田地子は五斗代(康平三年四月二一日「近江国愛智庄司等解」東大寺文書)。嘉保元年(一〇九四)五月には大安寺の訴えによって造営完了まで国司入勘・臨時雑役が停止されている(同月二九日「官宣旨案」東山御文庫記録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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