金丸保(読み)かねまるほ

日本歴史地名大系 「金丸保」の解説

金丸保
かねまるほ

邑知おうち地溝帯の金丸周辺に比定される。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に「金丸保」とみえ、同元年の国衙の検注で公田数が七町三段一に定められたとある。元亨三年(一三二三)一〇月九日の永光寺寄田注文(永光寺文書)によると、永光ようこう(現羽咋市)開山瑩山紹瑾のもとに円意坊が田地三反を寄進している。これは金丸の内にある一宮気多社の免田で、瑩山の得分の内容は所当であった。この田地は「金丸市」の後ろに所在し、収納分は同寺の僧食料に充てられている。円意坊は金丸付近に領地をもつ武士の後家で、曹洞禅に帰依し瑩山の門下となっていた(「瑩山紹瑾法度案」同文書)。また至徳三年(一三八六)九月二九日の総持寺常住新目録(総持寺文書)によると、「金丸大工」が上棟にあたり馬一疋を進上している。邑知潟淵の西往来筋の要衝として鎌倉末期すでに保内で定期市が立ち、南北朝期には職人も居住しており、口能登で都市的機能を備えた地域を形成していたと考えられる。


金丸保
かなまるほ

金丸に所在した保。観応二年(一三五一)六月二七日筑後守某奉書(本田寺文書)によれば、「金丸郷」などが本間貞忠に安堵されているが、応永一四年(一四〇七)七月二日の左衛門尉詮忠(本間氏カ)譲状(山田本間文書)、永享九年(一四三七)三月六日本間源存譲状(同文書)では、「金丸保半分」をそれぞれ本間有泰、本間淳泰に譲るとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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