金地僧録(読み)こんちそうろく

世界大百科事典(旧版)内の金地僧録の言及

【金地院】より

…1615年(元和1)の大坂落城のあと,崇伝は僧録司に任ぜられたが,そののち維新まで金地院の代々の住持は,臨済宗の五山派の寺院と僧侶を統制するこの職を兼ねた。これを世に金地僧録と言い,近世臨済界に当院住持は君臨することとなった。【藤井 学】
[文化財]
 院内の建築のうち,方丈(桃山時代,重要文化財)は北西の室が上段の間となり,床,違棚,付書院,帳台構(ちようだいがまえ)を構え,近世書院造住宅の座敷飾の典型。…

【僧録】より

…歴代のうち,一山派の仁如集尭以外はすべて夢窓派の禅僧がつかさどった。近世期には,1619年金地(こんち)院の以心崇伝が僧録となり〈金地僧録〉と称し,明治維新まで存続したが,1635年(寛永12)寺社奉行が設置されたのちは名目的な存在となった。僧録は五山官寺に入らなかった曹洞宗でも独自に置かれ,応安年間(1368‐75)には通幻寂霊(つうげんじやくれい)がその任につき,近世には関三刹が関東僧録として幕府から任命された。…

※「金地僧録」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」