金大中事件(読み)キムデジュンジケン

デジタル大辞泉 「金大中事件」の意味・読み・例文・類語

キムデジュン‐じけん【金大中事件】

昭和48年(1973)、韓国の野党指導者金大中キムデジュンが、同国公権力によって東京都内のホテルから拉致され、5日後にソウルの自宅近くで解放された事件
[補説]平成19年(2007)10月、韓国政府は同国の当時の情報機関KCIAが事件に深く関与していたことを正式に明らかにした。

きんだいちゅう‐じけん【金大中事件】

キムデジュン事件

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「金大中事件」の意味・わかりやすい解説

金大中事件
きんだいちゅうじけん

1973年(昭和48)8月8日の白昼、東京都心のホテルから韓国の野党指導者金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)が拉致(らち)された事件。犯人たちは金大中を船上から海に投棄する予定であったといわれるが、途中、おそらくは飛行機からの指示によってそれを取りやめ、金大中は13日韓国ソウルの自宅前で解放された。事件後、日本の捜査当局により、現場から駐日韓国大使館員、金東雲(きんとううん)一等書記官の指紋が検出されるなど、韓国公権力による日本の主権侵害の疑いが強く、その後、日韓両国の外交問題に発展した。しかし、73年11月、田中角栄(かくえい)・金鍾泌(きんしょうひつ/キムジョンピル)の両国首相会談で、韓国側は事件について陳謝するとともに、金東雲の取調べを行い、しかるべき措置をとること、金大中に関しては市民的自由を保障し、在日・在米中の言動については責任を問わないこと、事態の再発防止に努力することを約束した。これが、いわゆる第一次政治決着である。ついで75年7月、宮沢喜一(きいち)・金東祚(きんとうさく)の両国外相会談で、韓国側は口上書を手交し、金東雲について捜査を行ったが容疑事実を立証するに足る確証がなく不起訴処分としたこと、同人の言動は公務員としての資質品位に欠けるため、すでに解職したことを通告、日本側もこれを受け入れた。これがいわゆる第二次政治決着である。

 その後、金大中は1976年には懲役5年、さらに80年には死刑の判決(その後減刑)を受けるなど苦難の道を歩んだ。こうして事件の本質としての主権侵害問題は、あいまいのまま不問に付され、83年8月には日本の特捜本部も解散するに至った。

[石本泰雄]

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百科事典マイペディア 「金大中事件」の意味・わかりやすい解説

金大中事件【きんだいちゅうじけん】

1973年8月,韓国の新民党所属の元大統領候補金大中が東京のホテルから拉致(らち)され,韓国に連れ戻された事件。この事件は,韓国公権力による日本主権侵害行為であったが,1975年7月,日韓外相会談に際して,韓国側から提出された口上書により,容疑者金東雲一等書記官の解任という形で政治決着がつけられた。
→関連項目宇都宮徳馬

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世界大百科事典(旧版)内の金大中事件の言及

【大韓民国】より

…朴正熙政権になると,主としてアメリカの援助削減を背景とする経済上の動機から対日接近政策が積極化し,1965年に日韓条約を締結した。以後,経済面を中心に日本との関係は急速に緊密化し,73年の金大中事件,82年の教科書問題,90年代の従軍慰安婦問題,さらに竹島問題等の紛糾を繰り返しながらも,対日外交の課題は軍事から文化まで広範な領域に拡大しつつある(後述の[日本との関係]を参照)。 1960年代までの韓国外交の対象はアメリカ,日本等の西側陣営にほぼ限られていたが,70年代以降は開発途上諸国,さらには社会主義圏との交流にも力を注ぐにいたっている。…

※「金大中事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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