絹織物の一種。江戸時代,天保の改革(1841)ころから玉紬を軸に秩父(埼玉県)や伊勢崎(群馬県)の太織(ふとおり)からつくられたもので,明治以降第2次世界大戦までの日本人の衣料に欠かすことのできない織物であった。銘仙の文字は江戸末期から明治初めにかけて使われはじめたが,それ以前は目専,目千,名撰,蠒繊と書いた。《守貞漫稿》では蠒繊を〈メイセン〉〈メンセン〉と呼び,塵埃(じんあい)つかず丈夫なので天保頃より用いる,としている。縞目が専門だから,縞目の堅牢を専一としたから,縞目が千あるからとか,名撰は渡裂(わたりぎれ)などの名品を選んで模して織り出したからとか,また蚕から作ったから蠒繊の字が使われるなどさまざまの理由によって名づけられた。銘茶,銘酒にちなんで銘の字を使い,仙境で織られるから銘仙というともいわれる。経糸は絹糸,絹紡糸,緯糸は絹糸,玉糸,のし糸,紡績糸などを使ったものが多い。軽くて丈夫で,締りのある生地味に加え,光沢に富む。素朴な美しさをもち使いやすく,平常着から外出着まで,木綿の上位のものとして幅広く用いられた。無地,縞物から明治中期には絣柄が増え,逐次,大絣,小絣,珍絣(ちんがすり),解絣(ほぐしがすり),解併用絣,締切絣,捺染絣,抜染絣,括絣,縞絣等,さまざまな技法とその併用がくふうされ,種類が豊富でほとんどの階層の需要にこたえて評価を高めた。産地は伊勢崎,秩父,足利,八王子などが有名。婦人着尺,羽尺,夜具,座布団,ねんねこ半天,丹前などの生活着に使われた。1950年ころから激減し,現在は解絣などの銘仙技法が各種の織物とくに婦人服地,室内装飾地,傘地等に利用されるが,和装は雨コートくらいできわめて少ない。
執筆者:宮坂 博文
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絹織物。武州(埼玉県)の秩父(ちちぶ)や上州(群馬県)の伊勢崎(いせさき)地方で江戸時代からつくられていた太織(ふとおり)(太い練り糸を用いて織った織物)の一種。無地または縞(しま)を主とした実用的なものとして一般に広く用いられた。ことに幕末の天保(てんぽう)の禁令以後は庶民階級の間に広い需要層をもつに至り、明治以後は模様加工にくふうが加えられて、縞柄のほかに捺染(なっせん)、抜染(ばっせん)、解(ほぐ)しなどによって大柄な絵模様絣(がすり)がつくられ、着尺(きじゃく)、ふとん地などとして盛んに用いられた。産地は秩父、伊勢崎が主で、ほかに桐生(きりゅう)、足利(あしかが)、八王子などでもつくられたが、近年は一般に普段着に和服を着ることが少なくなり、そのうえ化繊、ウール地の出現によって、ほとんど影を没してしまった。
[山辺知行]
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…他方85年を底とする不況期には輸出織物の生産に活路を求めて急成長を遂げ,90年代には国内向け製品の産額を凌駕する年もあったが,98年をピークとして衰えた。絹綿交織物も景気変動の激しかった大正期を乗りきったが,1929年恐慌後にわかに影を潜め,代わって絹紡糸を主要原料とする銘仙が主力製品となった。敗戦後,緯糸(よこいと)に人絹を用いた銘仙が人気を呼んだのは50年から約10年間で,以後従来の着尺(きじやく)物の生産は停滞し,化繊による経編(たてあみ)メリヤス(トリコット)をはじめスカーフやレース類を生産する時代に入った。…
※「銘仙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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